初めてオーストラリアに西洋人が上陸したのは1606年。

1606年、オランダ人のウィレム・ヤンツがオーストラリア大陸に上陸するも、植民地には向かないと判断しオランダ人は入植を行いませんでした。

それから164年後の1770年、スコットランド人のジェームズ・クックがシドニーに上陸、領有権を宣言、東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付け、入植が始まりました。

アメリカの独立により、1788年からはアメリカに代わって流罪植民地としてイギリス人の移民が始まります。

初期移民団1030人のうち、736人が囚人で、その他はほとんどが貧困層の人間だったそうです。その後、植民地での食糧難が加速したため、イギリス政府は自由移民を大規模に募り、オーストラリアの開拓を拡大させていきます。

当時は船舶技術も現代とは異なり、多くの貧困層や受刑者が危険な船旅をも顧みず、オーストラリアというまだ見ぬ新しい世界へ一縷の望みを託して渡っていきます。

そして移民した人々は内陸を探検し農牧地を開拓する中で、先住民であるアボリジニーから土地を取り上げて、迫害や追放、そして殺害や略奪を繰り返し、1830年までに純血のタスマニア先住民は絶滅してしまいます。

多くの時代の変遷を経て、いまでは多様性を認め合い、平和に多種多様な国籍や人種が暮らしているオーストラリアはダイバーシティの国として知られています。

そんなオーストラリアに、初めてドイツ人が渡ってきたのは1839年でした。

1839年、ルター派教会の信者達187人(38家族)が宗教的迫害から逃れるためにプロシアから、オーストラリア連邦南オーストラリア州の州都であるアデレード近郊のエリアに逃れてきた彼らは、ドイツ人の街を構築します。

その地こそ、今回ご紹介するオーストラリア最古のドイツ人入植地「ハーンドルフ」です。

いまなおドイツ移民の歴史が残るこの町は、1988年にオーストラリア最古のドイツ人入植の地として認められ、南オーストラリア州の遺産に登録されています。

そんなハーンドルフでは今でも、当時の暮らしをかいまみることができます。

町の古民家にはそれぞれ壁にプレートがつけられており、その建物の意味を教えてくれます。

例えば、最初のルーテル学校は1842年から1917年まで運営されていたことがわかります。

ルーテルとは、ルターのドイツ語の読み方に由来するもの。ルター派の学校がこの場所で運営されていたことがわかります。

町外れにある「聖ポール・ルーテル教会(St. Pauls Lutheran Church)」もやはりルター派の教会としてこの地に存在しています。

現在ではオーストラリア・アデレードでも指折りの観光地の1つとなっているハーンドルフ。

ヨーロッパの片田舎っぽい雰囲気を楽しみながら、ドイツビールを楽しむことも可能です。

もしオーストラリア・アデレードを訪れる時は、遊びに行く候補地の1つとして考えてみてはいかがでしょうか?

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