■野村秋介氏らによるフィリピン日本人カメラマン救出劇

さて、前回のコラムで【烈士・野村秋介】について拙文ながら皆さまにご紹介させて頂きました。もちろん既にご存知の方も多く居られたことと思います。野村秋介という生き方や徹頭徹尾貫かれた美学を限られた文章で伝えるのは難しく、興味をお持ちの方には関連する書籍の購読をお薦めしております。

【二十一世紀書院】

http://21seikisyoin.web.fc2.com/

野村秋介烈士の生前の活動を風化させない為の言論活動や、機関誌【燃えよ祖国】の発行、【群青忌】の開催を行い、遺された著作等の出版・販売を手掛けるという、心ある出版社です。

野村秋介烈士が遺した瑞瑞しくも烈々とした言葉に触れてみては如何でしょう。

さて、野村秋介氏がフィリピンの反政府ゲリラに囚われた日本人カメラマンを救出したエピソードは「時期的」にもタイムリー(?)であり、いくつかのお問い合わせを頂戴しました。ここに改めて書き記し、広く皆さまに知って頂きたいと思います。

昭和60年(1985)。日本人カメラマン・石川重弘氏はフィリピンで活動するゲリラの写真を撮るためホロ島に渡りました。その際雇った現地ガイド2名がゲリラ側からスパイと見なされ射殺されます。そして石川氏は反政府イスラム・ゲリラ組織「モロ民族解放戦線」(MNLF)によって拘束され、囚われの身となったのです。日本国外務省は石川氏の実家を訪れ「死んだと思われたし」と伝えたそうです。

石川氏のことを知ったK氏(元任侠の高名な人物)がフィリピン側の有志と共に救出に動きますが、肝心の日本大使館は一切関心を示さず難航。しかも反政府ゲリラと接触を行うK氏らにフィリピン政府側も警戒を示し、下手をすると暗殺されてもおかしくない状況に追い込まれます。

切羽詰まったK氏は旧知の【右翼・野村秋介】に石川氏救出を相談、快諾した野村秋介氏は直ちに行動を開始しました。

先ずはマスコミ有志による【石川重弘君を救う会】を結成。広く国内に報道し、救出を呼び掛けました。また何度も現地に赴き、現地の救出グループの動きを支援します。救出グループはゲリラ側と交渉を重ね、当初の要求「身代金30万ドル(当時で約8000万円相当)・マシンガン100丁」から身代金を3000万円に引き下げ、マシンガンは拒否する事でほぼまとまり掛けていました。

ところが、例え「新右翼のカリスマ」といえども3000万円という大金を短期間で工面することは困難なことでした。そんな時に援助を申し出たのが当時武闘派として知られた山口組系のG組長だったといいます。何の見返りも求めず【野村秋介】という浪曼に掛けるのだと。

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