■”自分で蒔いた種は自分で”人質カメラマンの「覚悟」

石川氏は捕虜として幽閉され、昼間は山の開墾作業をさせられ、夜は畳1畳分という狭い所に閉じ込められていたそうです。当然自由は制限され、鍵を掛けられます。食事は山イモばかりで3日に一度出る小魚の干物がご馳走だったとか。そんな中で救出グループに宛てた手紙は石川氏の覚悟を示すものでした。

『これ迄3通の手紙を大使館に出したが、誰一人として引き取りに来れないということは、日比両政府と私の家族に対し、ゲリラ側が途方もない要求をしているのではないかと考えます。それが事実なら絶対に応じないでください。私自身は現状に我慢できますし、自力脱出も不可能ではないと思っています。救出されることが不可能な場合、最終的には自分で蒔いた種は自分で刈り取るのが本筋かと思います。皆さまの救出を待つ身でこのようなことを書くのは恥ずかしくもあり、生意気かとも思いますが、私の現在の心境なのです』

この手紙、石川氏は極限状態に在ってもなお、命乞いもせず「自分のことは自分で」と覚悟を示したのです。そしてその覚悟と潔さは野村秋介氏をはじめとする救出グループの胸を打ち、救出に向け更なる活動へと繋がっていきました。

ゲリラ側との最後の交渉は昭和61年の初頭。石川氏解放の条件として、ゲリラの出身母体たるスールー諸島のイスラム系住民に対し、3000万円相当の医療品供与を行うことで決着します。この医療品に関して、野村秋介氏の働き掛けが効をなし、最終的に【日本船舶振興会】の笹川良一氏によって賄われました。

この決着から解放までの3ヶ月の間に、マルコス王朝崩壊とアキノ政権誕生という激動のフィリピン情勢が起こり、ようやく3月に至ってゲリラ側から石川氏の身柄引き渡しを成し遂げたのです。

救出グループ、石川氏、野村秋介氏とK氏は船でザンボアンガまで渡り、飛行機でマニラへ向かいます。

そこではフィリピン正規軍が石川氏を個別に保護しヘリコプターで移動させると譲りません。正規軍大佐の態度に不信感を抱いた野村秋介氏は、武装した正規軍相手に獅子吼! その気迫に圧された正規軍は石川氏の連行を断念、直ちに解放したといいます。

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