ドイツ中部の町、アイゼナハの山頂にそびえるヴァルトブルク城。
ドイツの歴史上最も重要な城のひとつであるこの城は「ドイツ人の心のふるさと」と呼ばれ、1999年には世界遺産に登録されました。
中世のロマンが凝縮されたこの城は、のちに聖人に列せられたエリザベート妃が過ごした場所として、さらにはワーグナーのオペラ「タンホイザー」の題材となった歌合戦が開かれたことで有名。
しかし、現在のドイツの文化と精神に最も大きな影響を与えた人物といえば、宗教改革で知られるマルティン・ルターでしょう。
1483年、アイスレーベンの農家の家系に生を受けたルターは、一度は学問の道を志すも、22歳の夏、落雷に遭って死の恐怖を味わったことで修道士の道を歩み始めます。
そんなルターは「これを買うことで生まれもった罪や犯した罪を償うことができる」として贖宥状(免罪符)を販売していた教会のあり方に疑問を抱くようになります。
「聖書に書かれていることのみを信仰とすべきだ」と確信したルターは、修道士の身でありながら、カトリック教会の贖宥状制度を批判。これが、1517年にヴィッテンベルクの教会の門に打ち付けられた「95か条の論題」でした。
カトリック教会はルターに自説を撤回するよう求めましたが、ルターはそれを断固拒否。1521年、これを受けて教会を破門されます。さらに、ヴォルムス帝国議会で神聖ローマ皇帝カール5世に召喚を受けた際も、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と自説の撤回を拒否したために、帝国追放を宣言されてしまいます。
そんなルターを窮地から救ったのが、ルターを支持していたザクセン選帝侯フリードリヒ3世でした。フリードリヒ3世は、自身の居城であったヴァルトブルク城の一室にルターをかくまいます。
ルターは「ユンカー・イェルク(騎士ゲオルク)」の偽名を使い、外見を変えるために髭や髪を伸ばし、1521年5月4日からのおよそ10ヵ月間を質素な小部屋で過ごしました。
ここでの生活は精神的な試練であった一方、思索と著作に専念できる環境でもありました。ヴァルトブルク城の一室に身を隠していたあいだ、ルターはギリシア語のオリジナルテキストを元に、わずか10ヵ月で新約聖書のドイツ語訳を完成させたのです。
1522年3月、ルターはヴァルトブルク城を後にし、同年9月にはすでにドイツ語の新約聖書の初版が、さらに12月には改訂版が発行されました。
神聖ローマ帝国の人口およそ1500万人の大半が読み書きのできなかった時代、ルターの聖書は100万部も印刷され、空前のベストセラーになったのです。
民衆が理解できる表現を心がけたルターの聖書は、「ドイツ民族の第一の書物」とみなされるまでになり、近代ドイツ語の統一に大きな影響を与えたといわれています。
そんな歴史的偉業が成し遂げられた部屋は、「ルターの部屋」として、今も大切に保存されています。
ルターの部屋は「エリザベートの間」や「祝宴の間」などの豪華な広間があるエリアとは隔てられた、博物館部門に残されています。ギシギシと音を立てる風情ある廊下の先に、かつてルターが隠れ住んでいた部屋があると思うとドキドキせずにはいられません。
「ルターの部屋」は、城の北端にある小さな部屋で、きわめて簡素な空間に椅子やテーブル、ストーブなど必要最低限の家具や調度品が置かれています。
いくらストーブがあるとはいえ、山の上の簡素な部屋は冬になるとさぞ寒かったことでしょう。テーブルは1600年以前のもので、「ルターの椅子」は19世紀のコピーです。
ストーブの背後の壁が剥がれて中の石や木材がむきだしになっているのが印象的。
「ルターが聖書の翻訳を手掛けていると悪魔が現れ、驚いたルターがインク壺を投げつけると悪魔が消えた」、という伝説があります。観光客がそれらしきシミがある部分の壁をはがして持ち帰った結果、このようになってしまったのだとか。
「いかにも」という古さを感じさせる一方で、現在では木の壁をスクリーンにしてさまざまな文字やインクのシミが投影されるという粋な演出も取り入れられています。
帝国追放という厳しい状況に置かれながら、市民社会のよりよい発展に向けて自らの信念を貫いたルター。
ヴァルトブルク城を訪れるなら、華やかな部屋の数々だけでなくこの簡素な小部屋にも注目して、ルターの生涯とその功績に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
Post: GoTrip! http://gotrip.jp/旅に行きたくなるメディア