この連載では筆者が注目している書籍を紹介しながら時事問題について書いていきたいと思っている。時には書籍はわきにおいて時事問題そのものをテーマにすることもある。今回は、石平氏の『なぜ中国は民主化したくてもできないのか』(KADOKAWA)を紹介したい。

石平氏は日本の「保守論壇」で常に注目されている批評家のひとりだろう。ただ筆者はいままで石平氏の著作を読んだことがなく、今回が初めての機会だった。同時に『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史』(PHP新書)も合わせて読んでみた。二冊を読んだ感想は、「悪魔のように細心に 天使のように大胆に」というものだった。この言葉は映画監督の黒澤明の発言として有名なものだ。と同時に、石平氏の批評活動はいままで正当に評価されてこなかったのではないか? という疑問をいま抱いている。

筆者にはいわゆる「リベラル・左翼」系の知人も多いが、その人たちは「石平氏を批判して当たり前」とでもいった風潮がある。実際にそれを公言している若い論客も複数目にする。だが、本当に彼ら(彼女ら)は石平氏の書籍を読んだのだろうか?

例えば、最近著二冊で展開されている中国の政治・歴史の「法則」の説明とそれに基づいた中国政府や中国の言論状況への批判の在り方は、ノーベル平和賞受賞者である劉暁波の『現代中国知識人批判』や、現代にヘーゲル的な経済思考を復興させた経済学者のカーステン・ヘルマン-ピラートらの見解と深く共鳴している。

『なぜ中国は民主化したくてもできないのか』では、習近平国家主席が最近の憲法改正などで「新しい皇帝」の地位を確立しようとしていることを問題視している。石平氏によれば、これは習近平主席が単に独裁的な権力を奪ったことを意味しない。むしろ古代中国から延々と繰り返される歴史の法則が姿を現したのだという大胆な仮説を提示する。

中国では「中央集権制の皇帝独裁」が天下大乱の原因である一方で、この大災厄を鎮めるために中国の民衆は新しい皇帝と王朝の出現を期待する。だが、皇帝とその一族の「人治」が失敗すれば再び人民は苦難に陥る。そして我慢の限界がくると民衆自体が立ち上がり(時には対外勢力がその役目を果たすこともある)国内に大乱が起きる。そして再びまた新しい皇帝と王朝が求められる……。この皇帝と人民の関係の中には欧米的な民主主義の出番はない。

この反復する歴史の法則の中で、今回の習近平主席の今後の政策を予測するというのが、本書の問題提起のひとつだ。実に大胆である。だが、他方で本書は複雑きわまる古代中国から現代までの「皇帝」と「王朝」の盛衰の歴史を実にコンパクトにわかりやすくまとめている。その意味で教養書の側面も強くもつ。単純に読書としても面白いのだ。

この石平氏の指摘した政治権力の歴史法則とでもいうべき観点は、最近ではカーステン・ヘルマン-ピラートが指摘した「礼」と政治経済システムの関連に近い(『中国の経済文化』2016年、未邦訳)。ヘルマン-ピラートも古代中国から現代まで、政治体制を維持する人治的原理である「礼」によって政治・経済システムが維持されてきたこと、それは統治する人によって民衆には時に好ましく、時には苛烈に機能してきたこと。さらに西欧の法治主義とは異なるものとして、今日でもこの「礼」の文化が有効に働いている。経済活動には有利に作用しても、他方で自由な言論活動を弾圧するなどの二面性としてもその「礼」の文化を見ることができる。注目すべきは、ヘルマン-ピラートも石平もともにこの「王朝」の統治が一貫して続くというよりも、民衆やその経済・社会行動によって頻繁に退場を強いられ、新しい皇帝や新王朝にとって代わられているという動的な側面を重視していることだ。

ヘルマン-ピラートが、あまり言論の自由や知識人たち(いまでいう批評家など)の働きを考察していなかったのに対して、石平氏は『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃げられたのか』などで、この中国的な政治システムの中での言論の在り方を見てきた。その視線は繊細である。劉暁波は、『現代中国知識人批判』の中で、以下のように批判した。

「中国の長期にわたる「人治」の伝統、明君を探し求める中国知識人の夢が、なぜ数千年を経ても衰えないのかは、道徳的人格に対する信奉のためである。彼らは社会の政治変革をある権力者の道徳的人格に託し、制度そのものの改変に託さないのである」。

この視点が、石平氏と同じであることは説明を要さない。このような「王朝」を常に前提とする言論の在り方では、人々の幸せが実現できるのか疑わしいだろう。また経済活動もさまざまな個人のアイディアを国家が収奪してしまうなど、もっと伸びる余地があるにもかかわらず圧迫されてしまうかもしれない。これらは石平氏が常に指摘しているところである。その中で日本は伝統的に中国的な歴史法則とその中華思想とどう対してきたか。石平氏の著作の題名だけ読むと、日本の先行きに楽観的な印象に思えてしまうだろう。だが、その印象は間違いだ。常に石平氏は、日本がこれからどのように中国的な王朝権力とその思想と対していくか厳しく見つめている。

習近平主席が「新しい皇帝」であり続けようとするならば、日本の政府とまた知識人、そしてなにより国民は厳しい試練に立つだろう。その現実を知らせることが、批評家のひとつのリスクを冒した挑戦であることが、石平氏の著作から読み取れる。この挑戦を別な言葉でいえば、日本の「保守」の在り方でもあるのだ。