東大寺大仏殿といえば、中学校の修学旅行の定番としても知られています。ですがそのせいか、大人になってからここを訪れる機会はあまりないようにも思えます。
修学旅行生と一緒に奈良東大寺の大仏を見るのは、ちょっと恥ずかしい気がする……と筆者の友人が言ってました。ですがそれはかなりもったいないことで、奈良の大仏に込められた先人の想いは大人になってからようやく理解できるというのが筆者の考えです。
この大仏には、1300年前の人々の願いと苦労がはっきりと染み付いています。
・長屋王の「祟り」
奈良時代は、日本が積極的に国際交流を実施していた頃でもあります。
世界最大の先進国である唐に留学生を送り、大陸の様々な学問や最先端技術を吸収していました。シルクロードを渡った西方世界の文化も流入し、東洋の島国である日本は急速に発展していきます。
ですが、まったくの順風満帆というわけでもありません。奈良時代の中で聖武天皇が即位の座にあった頃、日本は大政変に見舞われます。
それが「長屋王の変」です。
日本という国は、天皇が直接政治を司ることは歴史上殆どありません。聖武天皇の場合も、当初は長屋王が執政を担当していました。それが藤原四兄弟の策略で政権の座を追われ、最終的に自害して果てます。
その後、西日本に天然痘が流行し、多くの死者が出ます。長屋王を陥れた藤原四兄弟も、この天然痘で命を落としています。もっとも、長兄の藤原武智麻呂の享年は数え58。この時代の水準で見ればとくに早逝というわけでもないのですが、当時の人々はこれを「長屋王の祟り」と考えました。
・きっかけは天然痘
人類史は細菌やウィルスとの戦いです。
とくにペストと天然痘は、紀元前から常に人類を苦しめました。一度その地域で流行してしまうと、人口が一気に減少するということもよくありました。アメリカ大陸ではコロンブスの上陸以降、ユーラシア世界から天然痘が持ち込まれ原住民が次々に倒れました。天然痘だけで滅亡した部族もあるほどです。
だからといって、昔は天然痘感染を予防する手段などありません。日本で医学的な見地からの天然痘撲滅事業が始まったのは、19世紀中葉。それ以前は文字通り「神頼み」でした。
聖武天皇は、藤原四兄弟の死を目の当たりにして衝撃を受けます。それと同時に、仏教を中核に置いた鎮護国家を建設しようと本気で考えるようになります。仏教の力で困難をはねのける、ということです。
しかもそれは単なる思いつきではなく、とことんまでに徹底していました。
・「仏教国家」を目指した聖武天皇
先述の通り、聖武天皇の時代の日本は唐に多くの留学生を送っています。
その目的は、最先端の政治制度を日本に導入するため。もちろんその中には、仏教も含まれています。近代以前、国家と宗教は切っても切り離せないものでした。
このようにして唐の最先端の仏教学を取り込んで多くの寺社を建てていたのですが、問題が発生します。国内に仏教が普及すると、今度は勝手に僧侶を名乗って役得にすがろうとする人間が出てきました。
現代でも、ランドオペレーターという職業は最近まで「自称」で成立していました。ですが質の悪い業者が横行したため、来年1月からランドオペレーターも登録制となります。これと同じように、聖武天皇は僧侶を国家の登録制にしようと考えたのです。
ですが、ライセンスを発行するためにはそれを認定する人、その分野に精通した専門家がいなければなりません。ではどうしたかというと、唐から高名な僧侶を呼び寄せることにしました。
それが他でもない、鑑真和上です。
・「銅製大仏」は一大プロジェクト
聖武天皇は鑑真和上の日本招聘と同時に、それと並ぶ一大プロジェクトを打ち出していました。
東大寺大仏の造立です。
この大仏は、銅を鋳造したものです。殆どの場合、大仏というものは岩場を削って造られます。当時の技術レベルで「巨大な銅像」というものは失敗の可能性が高く、非常に大きなリスクを伴います。
現代の発展途上国が人工衛星を打ち上げるようなもので、失敗すれば国家の威信に大きな傷がつきます。
だからこそ、やるからには徹底的に物事を追求する必要があります。大仏開眼に携わった僧侶の中には菩提僊那という人がいますが、この人はインド出身です。海路が開拓されていない時代、徒歩でヒマラヤ山脈を登って唐に行ったという超人でもあります。
そうした外国人を招聘したのですから、聖武天皇の本気度が伝わってきます。決して気まぐれで大仏を造ったわけではなく、また周囲の人々も聖武天皇の考えに賛成していたからこそ、このプロジェクトは具現化したのでした。
奈良の大仏は国家の基礎を固め、それは当然ながら現代日本の成立にもつながっていきます。
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