ミュンヘンに次いで人口が多く、バイエルン州第2の都市と言われるニュルンベルク。

かつて多くの皇帝がニュルンベルクを好んで住み、ケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであったこの都市は、ドイツの歴史に今なお暗い影を落とす1人の人物によって、その輝かしい街の歴史を黒く染めることになってしまいます。

その発端が1933年8月30日から9月3日の間にこの街でアドルフ・ヒトラーが開催した第5回ナチ党党大会でした。

実際にヒトラーが権力掌握したのは1933年1月30日。

1933年8月30日に行われた第5回ナチ党党大会はヒトラー内閣が成立した後に初めて行われた党大会でした。

そしてそのヒトラーにとっても人類史にとってもある種のターニングポイントとなったナチ党党大会が行われた場所こそ、今回ご紹介するニュルンベルクのルイトポルトハイン(Luitpoldhain)でした。

ヒトラーにとって内閣成立を達成したことががどれほどの意味を持ち、そしてそのドイツの全権を掌握した後に行なった党大会がどれほどの意味を持つのか、それは現代の我々には推察するしかありませんが、ヒトラーにとっても、ナチ党に所属する人々にとっても、言葉では表現できないほどの高揚感があったに違いありません。

「勝利の大会」と名付けられたこの第5回ナチ党党大会には30万人以上の人々が参加し、そしてその圧倒的大多数の群衆がヒトラーに熱狂していました。

その情景たるや、まさに圧巻と表現するのがふさわしい、そんな情景が広がっていたのだと思われます。




この党大会でヒトラーはニュルンベルクを「帝国党大会の都市」とすることを宣言し、第二次世界大戦が開始されるまでの間、第5回党大会を含めた合計6回、ニュルンベルクのルイトポルトハイン(Luitpoldhain)を中心としたエリアで党大会が開催されます。

実はニュルンベルクが党大会の場所として選ばれた理由はニュルンベルクという地理的な利便性やニュルンベルクのナチ党のもつ他の地域よりも強い組織力など実用的な理由が中心でした。

しかしながら、かつてニュルンベルクが神聖ローマ帝国の中心地のひとつで、皇帝カール4世の1356年の「金印勅書」以来、1543年まで帝国議会の開催されてきた街であったという伝統と後に結び付けられてしまったため、ニュルンベルクがナチ党党大会が行われる街として正当化されるようになってしまいます。

現在のルイトポルトハイン(Luitpoldhain)には当時のナチ党党大会が開催された時の写真と解説がそれぞれの象徴的な出来事が開催された場所に立てられており、現在のルイトポルトハインとかつてのルイトポルトハインとの違いを感じることができます。

かつて多くの人々が隊列を成し、ヒトラーの名を声高に叫び群衆が熱狂していた場所は、

一面の緑が広がる場所になっています。

ヒトラーが敬礼している方向にあるのが、第一次世界大戦で亡くなったドイツ軍兵士の慰霊碑として建てられたエーレンハレ(Ehrenhalle)です。


現在のエーレンハレ(Ehrenhalle)もかつてと、ほぼ変わらない形で保存されていますが、


かつてと異なる点があります。

それが、第二次世界大戦で亡くなった方と1933年から1945年までの間、ナチス・ドイツによって命を奪われてしまった方への慰霊碑となっている点です。


かつての党大会に参加する人々によって埋め尽くされていた場所は、


今は広大な緑の公園として市民の憩いの場になっているのです。


第5回大会の翌年に開催された第6回ナチ党党大会では、ヒトラーに寵愛された建築家アルベルト・シュペーアの発案によって荘厳な党大会が企画・実施されました。

それが夜間に130基の対空サーチライトを上方に向けて放ち、光の柱を暗闇に浮かび上がらせるという、かつてない党大会でした。

会場のツェッペリンフェルトは荘厳な光と暗闇に包まれ、現在からは想像もできない熱気と雰囲気だったと想像されます。

のちにレニ・リーフェンシュタールがこの党大会を記念映画「意志の勝利」として作成したことでも有名になる第6回ナチ党党大会は、これまで以上にさらに多くの人々の心を掴み、熱狂の渦へと駆り立てていきます。

当時のヒトラーは現代の我々が生きる世界で例えるのなら、ハリウッドスターのようなアイドル的な存在だったと評されています。

現代では信じられないことですが、当時は自動車王ヘンリー・フォードやイギリスの首相にもなったデビッド・ロイド・ジョージ、ファッションの世界では知らない人はいないココ・シャネル、そしてアメリカ合衆国の飛行家として誰もがその名前を知るチャールズ・リンドバーグ、など著名人も含めた世界の多くの人々がヒトラーを賞賛していることから、ヒトラーはドイツ国内のみならず、世界的に名の知られた有名人であることが分かります。

そんなヒトラーが開催した荘厳なナチ党党大会ですが、第6回大会の翌年に行われた第7回ナチ党大会期間中には、ニュルンベルク法を成立させユダヤ人の市民権を完全にはく奪します。

そしてそのさらに翌年の第8回ナチ党党大会では四カ年計画を発表、戦争を行える体制を整えるため軍備支出を大幅に増加させ、戦争への歩みを進めていきます。

そんな荘厳な党大会が開催されたニュルンベルクのツェッペリンフェルトでは、象徴的な式典が行われた場所を、現在でも実際に歩くことが可能です。

実際に演説のためにヒトラーが歩いた階段をおりて

演説台の前に立ってみると、その巨大な空間に驚きを禁じえません。

多くの人々が熱狂したその場所に実際に立ってみると、現代に生きていること、そしてこの場所に立っているということ、その事実に得体の知れない感覚を覚えてしまいます。


また、党大会だけでなくこのエリアにある建物はヒトラーによって政治利用されています。

その1つがルイトポルトホール(Luitpoldhalle)。

「アウクスブルク・ニュルンベルク機械工場」を意味するMANというドイツの自動車・機械メーカーが、バイエルンの摂政王子ルイトポルトの名を冠して建設した巨大な機械の展示施設であったルイトポルトホールは

ヒトラーに寵愛された建築家アルベルト・シュペーアによって、1万6千人を収容できる施設へと生まれ変わってしまいます。

しかしながら、空襲によって破壊されたルイトポルトホール(Luitpoldhalle)は

今ではただ、石の階段が残るのみとなっています。


そして未完成のまま放置されることになってしまったコングレスハレ(Kongresshalle)もこのエリアに存在します。

現在では帝国党大会会場文書センター(Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelaende)として公開されていますので、様々なナチス・ドイツの歩みを学ぶことができます。

古代ローマのコロシアムをモデルにしたこの施設は、現代の私たちがみても非常に巨大で荘厳に感じるほどですので、当時の人々からみると、想像を超えたとてつもない圧倒的な建物だったに違いありません。









現在では、多くのイベントが催され、市民の憩いの場所として使われているルイトポルトハイン(Luitpoldhain)。

バイエルンで最も人気のある統治者の1人ルイトポルトの名をつけた、ルイトポルトの森(hain)という意味のこの場所は、ドイツの暗黒の歴史を忘れることなく刻み、現代に生きる私たちに平和とはどういうものなのか?というのを今でも投げかけ続けています。

もしドイツを、そしてニュルンベルクを旅行する機会があれば、この場所を訪れてみてはいかがでしょうか。

きっと、人類の持つ暗黒の歴史があったという事実をその場所で触れることで、より歴史の事実の重みを知る機会になるに違いありません。

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名前 ルイトポルトハイン(Luitpoldhain)
住所 Luitpoldhain, 90478 Nürnberg, Germany

名前 ツェッペリンフェルト(Zeppelinfeld)
住所 Zeppelinstraße, 90471 Nürnberg, Germany

名前 帝国党大会会場文書センター(Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelaende)
住所 Bayernstraße 110, 90478 Nürnberg, Germany
公式ホームページ https://museums.nuernberg.de/documentation-center/