北の黒海から南のマルマラ海に注ぐボスポラス海峡にぽつりと浮かぶ乙女の塔で知られるイスタンブールのアジア側の街、ユスキュダル。

イスタンブールに住まう人たちの飾らない日常生活を垣間見ることができるユスキュダルには、船着き場やバス停近くから見える大きなモスク、イェニ・ヴァリデ・ジャーミィがあります。

凛と空に刺さるような2基のミナレットが美しいこのモスクは、ユスキュダルに住まう地元の人たちが毎日の礼拝の時間に集まる歴史あるモスクです。

イェニ・ヴァリデ(yeni valide)とは「新しい母后」を意味します。イスタンブールのヨーロッパ側、エミノニュにあるヴァリデ・ジャーミィが1665年に完成したのに対し、ユスキュダルにあるこのモスクは1710年に完成したことから「新しい」と呼ばれているのです。

では、この時代の母后はいったい誰で、彼女はオスマン宮廷にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

1708年、当時のオスマン帝国第23代皇帝アフメト3世の母であったギュルヌシュ・スルタン(Gülnuş Sultan)のためにユスキュダルのこの地にモスクの建設が始められました。

アフメト3世は、ピョートル1世率いるロシアやカール12世率いるスウェーデンといったヨーロッパ列強との戦争に対処する一方で、オスマン文化に積極的に西洋文化を取り入れ、オスマン帝国の領土喪失の代わりに和平を得たチューリップ時代と呼ばれる時期を生んだ皇帝として知られています。

そんな彼の治世を、トプカプ宮殿のハレムで影ながら支え、ときに操っていたのが母親のギュルヌシュ・スルタンだったのです。

ギュルヌシュ・スルタンは、1642年に当時ヴェネツィア共和国の統治下にあったクレタ島でギリシア正教の祭司の娘として生まれましたが、オスマン軍によるクレタ島侵攻の際に奴隷としてコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に連れてこられました。トプカプ宮殿ではイスラムの教えやトルコ語を教育され、当時のスルタン、メフメト4世の気を引き、彼との間にのちのスルタンとなるムスタファ2世とアフメト3世を儲けました。

第一子のムスタファが生まれたとき、自分の息子がのちのスルタンの座に就くことを確かにしたかった彼女は、メフメト4世の兄弟を殺そうと試みましたが、当時の母后トゥルハン・ハティジェ・スルタンに阻止される、という未遂事件がありました。

またムスタファの教育を担当していたフェイズッラー・エフェンディ(Feyzullah Efendi)や、先代の大宰相の甥っ子であるアジェムザーデ・ヒュセイン(Acemzade Hüseyin)といった宮廷に携わる者たちとも交信があり、当時のあらゆる政治家・宮廷の要人たちのポストを自らに有利なように操っていました。

このように、機知に富んでいながらも、冷酷な一面を持つ女性、ギュルヌシュは、1695年、53歳のときに長男ムスタファ2世がスルタンの座に就き、ついにヴァリデ(母后)というハレムにおける頂点の座を手に入れたのです。またそれに続いて次男のアフメト3世もスルタンの座に就いたため、二代に渡ってハレムで実権を握りました。

アフメト3世の時代の対ロシア戦では、スウェーデン王カール12世がオスマン帝国に差し向けた使節と内密にやりとりをし、対外戦争をも影ながら操っていました。

このようにしてみると、なかなか気が強い女性であったことがわかりますが、ハレムの宦官長と手を組んでワクフという財団をつくり、得た資金をメッカのイスラムの宗教施設に寄付したり、ユスキュダルのモスクのみならずヨーロッパ側のガラタ地区の教会の改修などを指示し、1715年に亡くなるまでイスタンブールの街の景観の整備にも尽力していたことでも知られています。

イェニ・ヴァリデ・ジャーミィは、そんな彼女の性格や隠された内面を表現しているかのようです。内部の装飾は、ギュルヌシュのまるで男性のような力強さや、ハレムで一世を風靡した堂々とした人間像を感じさせます。それと同時に、どこか女性らしい繊細な一面をも感じずにはいられません。

ユスキュダルの名所は、ボスポラス海峡に浮かぶ乙女の塔だけではありません。オスマン帝国時代にスルタンの活躍をハレムで支えた母后のモスク、イェニ・ヴァリデ・ジャーミィにも、ぜひ足を運んでみてください。ギュルヌシュ・スルタンの生き様を表現しているような壮大な空間に、必ずや魅了されるでしょう。

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名前 イェニ・ヴァリデ・ジャーミィ(Yeni Valide Camii)
所在地 Mimar Sinan, 34664 Üsküdar/İstanbul