トルコ最大の都市イスタンブールは、ボスポラス海峡によって大陸がアジアとヨーロッパに二分されています。海峡沿いにはオスマン帝国時代に建てられた歴史ある宮殿や海峡を見渡すことができる高級なホテルやレストランなどが建ち並び、イスタンブールの美しい街並みを構成しています。
そんなボスポラス海峡沿いに、人々の信仰を集めてやまない霊廟があります。16世紀、オスマン帝国を最盛期に導いたスレイマン大帝の時代に、影ながら政権を支えたヤフヤー・エフェンディの霊廟です。
ヤフヤー・エフェンディの霊廟は海峡に沿うように南北に細長い敷地の中にあり、ボスポラス海峡を見渡すベシクタシュの小高い丘の上に位置します。この丘はちょうどチュラーン宮殿に面しており、海峡側から陸側にのびる細い急坂を上って3分ほどのところに入り口があります。
ボスポラス海峡を大パノラマで見渡すことができる、いわば一等地のようなところに霊廟を構えるヤフヤー・エフェンディは、スレイマン大帝の時代に一体どのように活躍したのでしょうか。
ヤフヤー・エフェンディは、1495年にトラブゾンで生まれました。彼の母親はスレイマンの乳母でもあったことから、幼少期にオスマン政権との近しい関係を築くことができました。
ヤフヤー・エフェンディは、トラブゾン、そしてイスタンブールで教育を受けたのち、ウラマー(イスラムの知識人)であった父親の影響を受けて神学校で勤め始めました。オスマン宮廷とは近しい関係にあったものの、1553年、スレイマン大帝が実の息子ムスタファ皇子を処刑した件でスルタンを批判したため、彼は解雇されて、行政に中心であったトプカプ宮殿から遠く離れたベシクタシュに住まわされることになったのです。
彼はこの時にこの場所で、多くの非ムスリムの海軍をムスリムに改宗させたり、イスラムの説教によって多くの人に影響を与えるという活動を行ったため、のちに再びスルタンの信用を取り戻すことができました。このようにして再び帝国の行政にイスラムの見地から関わり、スレイマン大帝の時代のオスマン帝国の成長を手助けし、スルタンのよき相談相手にもなりました。また、当時の大宰相であったリュステム・パシャやソコルル・メフメト・パシャが打ち出す方針についても干渉し、オスマン政権を影ながら支えていた存在として信頼を得ていた人物だったのです。
1571年に亡くなると、スレイマン大帝の後継ぎとなったセリム2世の命により、ボスポラス海峡を見渡すこのベシクタシュの丘の上に霊廟がつくられました。
ボスポラスの青によく馴染む淡い緑の霊廟内には、ヤフヤー・エフェンディの大きな棺、それを取り囲むように彼の親族やアブデュルハミト2世の娘ハティジェ・スルタンやその息子といった、オスマン家の血を引く皇族の棺も並んでおり、クルアーンを読みながら棺の前で彼らの魂の平安を祈る人たちが見受けられます。
亡くなってから400年以上も経ちますが、ヤフヤー・エフェンディはいまでも多くの人の祈りを聞きながら、丘の上からボスポラス海峡を見渡してこの街の平和を案じていることでしょう。
イスタンブールでボスポラス海峡沿いを散策する際には、オスマン帝国最盛期にイスラムの見地から政権を支え続けたヤフヤー・エフェンディの霊廟にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
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名前 ヤフヤー・エフェンディの霊廟(Yahya Efendi Türbesi)
所在地 Yahya Efendi Sokak 1 34349 Beşiktaş İstanbul