世界に名立たる絵画を無料で公開するナショナル・ギャラリー、テート・モダン、テート・ブリテン、ウォレス・コレクションなど、至極の美術館がひしめくロンドン。
その一方で、街歩きをしていると、ストリート・アーティストの制作現場に出くわしたり、政治性の強い絵を描くことで有名な覆面アーティスト・バンクシーの壁画に遭遇したりと、クオリティの高いストリート・アートの聖地でもあります。

今回はそんなロンドンの中でも他に類を見ない小さな小さなストリート・アートをご紹介しましょう。

小さなアートのカンバスとなるのは吐き捨てられたチューインガム。不思議なことに実際にガムを吐き捨てている人を見かけたことは一度もないのですが、ロンドンの路上は水玉模様ができているほどガムで汚れています。

そんな目障りで迷惑な路上のガムをアートへと変身させたアーティストが、『チューインガム・マン』こと「ベン・ウィルソン(Ben Wilson)」さんです。
ベンさんの地元であり彼が活動の拠点にしているのが北ロンドンの瀟洒な街「マズウェル・ヒル(Muswell Hill)」。

この街では他のどの街よりも多くのチューインガム・アートを発見することができます。

アーティスト一家で育ち、自らも自然とアートの世界へと進んだというベンさんは、かつては産業廃棄物や車、ごみなどに強い嫌悪感を持ち、それらから逃れるように森など自然の中で彫刻を制作していたのだそう。のちに街中の見苦しい看板などに絵を描きはじめますが、看板に絵を描く行為は器物破損として犯罪行為になってしまいます。そこで彼が目をつけたのが、路上に斑点模様を成すチューインガムでした。

『路上のガムがカンバスなら、作品を展示するギャラリーは不要、誰の所有物でもないゴミに描くので許可も不要、法も犯さない!』と、ベンさんがチューインガム・アートの制作を開始したのが1998年のこと。

やがて『フルタイム』のチューインガム・マンとして活動をはじめたのが2004年。この頃には地元ではすっかり有名人となり、マズウェル・ヒルの『名物アート』を生み出すアーティストとして地元住民から愛される存在になっていました。そして今ではBBCをはじめとする多くの大手メディアからの取材を受けるほど認められています。

筆者もマズウェル・ヒル周辺でベンさんの制作現場に遭遇したことがありますが、ペイントだらけの衣服で地面に横たわり、黙々と作業をするベンさんの手元を覗き込むと、にこやかな笑顔を返してくれたのが印象的でした。それからというもの、この街を訪れる度に下を向いてチューインガム・アートを探すのが楽しみになりました。

風化してしまったチューインガム・アートのそばには、また新たなアートが生まれます。

ガス・バーナーでガムの表面を温めてから固め、その上に細かな絵を乾かしながら重ね描きし、最後にコーティングするという作業は、ひとつ数時間から10時間もかかるものもあるのだとか。

ロンドン各所に作品を残しているベンさんですが、マズウェル・ヒルのほかに、特に多くの作品が見られるのがロンドン中心部のテムズ河にかかる「ミレニアム・ブリッジ」です。

北岸のセント・ポール大聖堂と南岸のテート・モダン美術館を繋ぐ歩行者専用のこの橋は、その名のとおり2000年に完成した橋で、映画「ハリー・ポッターと謎のプリンス」のロケ地としても有名。
場所柄多くの観光客で賑わっていますが、足元のアート作品に気付く人はほとんどいません。

それなのにひとつ発見すると、それまでまったく気付かなかったものがここにも!あそこにも!と次々と目に飛び込んでくるのが不思議です。

通常のガムは楕円形が多いのでベンさんの作品も丸いものがほとんどですが、この橋の溝にはまったガムは様々な形に変形しており、そんな形から発想を得たバラエティ豊かな作品が400点以上楽しめます。

よく見ると日付や名前が描かれているものがあります。

自分の作品を制作するだけでなく、依頼者から『手数料』を受け取り、名前やメッセージ入りのチューインガム・アートの制作も引き受けているというベンさん。
誕生日や記念日に向けた手短なメッセージや名前が入った依頼作品も多く存在します。特別でオシャレな記念になりそうですね。

今となっては地元警察にも認められる人物ですが、これまでロンドン中心部の路上で制作中に器物損壊容疑で警察に捕まったことがあるのだとか。その際、地元警察から嘆願書が提出され、起訴されずに無罪放免になったのだそう。

「落ちているチューインガムを人々が見たいと思う美しいものに変身させているだけだよ。歩道に絵は描いていない、落ちているチューインガムに絵を描いているんだから、器物損壊とはいえないよね」と、メディアのインタビューにきまってこう答えるベンさん。きっと確固たる信念を持って活動しているのでしょう。

そしてこの橋の上には、日本の東北大震災の被災者たちに捧げた「がんばろう東北」と日本語で書かれた作品があるそうなのですが、筆者は残念ながら400点の中から発見することができませんでした。

ロンドン旅行でミレニアム・ブリッジを訪れる機会があれば、そこから見える景色も綺麗ですが、是非足元にも目を向けてみてください。

小さな小さなチューインガムの中に、ユニークな小宇宙が広がっていますよ。

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