オスマン帝国の襲撃により、ロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団が1530年に拠点を置いたのがマルタ島。マルタを拠点としたことから、「マルタ騎士団」とも呼ばれるようになりました。
マルタの首都ヴァレッタは、騎士団が築いた都市として有名ですが、実はそれよりも早く騎士団が造った町があります。
それが海を挟んでヴァレッタと向かい合う、スリーシティーズ。「3つの街」という名の通り、スリーシティーズは、ヴィットリオーザ、セングレア、コスピークワの3つの町の総称です。
複雑な弧を描く海岸線は、まさに天然の要塞。
騎士団がやってきた当時、マルタの都は内陸のイムディーナにありましたが、再びやってくるであろうオスマン帝国軍を迎え打つため、海沿いビルグ(現ヴィットリーオーザ)を本拠地とすることを決め、村にあった砦を要塞化したのです。
有名な1565年の大包囲戦で、オスマン帝国の軍勢がマルタに攻めてきたとき、騎士団長が暮らしていたのがこの聖アンジェロ砦でした。
ヴァレッタの聖エルモ砦は、オスマン軍の猛攻により陥落。
このとき、オスマン帝国側は総勢約4万人、騎士団側はわずか700人でした。マルタ人の市民を加えても、9000人ほど。数だけを見れば無謀な抵抗のように見えますが、3ヵ月に及んだ非情な戦いの末、聖ヨハネ騎士団はついに勝利を収めます。
こうして、オスマン帝国への勝利の舞台となったビルグには、「勝利の町」を意味する「ヴィットリオーザ」という名前が与えられたのです。
その後ヴァレッタが建設され、騎士団の本拠はヴィットリオーザからヴァレッタへと移ったものの、3つの町にはその後も造船所や武器庫が置かれ、騎士団にとって重要な役割を果たしていました。
そんなヴィットリオーザのシンボルが、聖ヨハネ騎士団を守った聖アンジェロ砦。対岸のセングレアから見ると、その巨大さに圧倒されます。
港の先端に位置するこの地には、アラゴンの領主の居城であった砦がありましたが、騎士団がここを拠点としてからは、騎士団長の住居となり、要塞が建設されました。マルタがイギリスの統治下にあった時代には、イギリスの海軍基地として使われていたこともあります。
大規模な修復作業を終えて、2006年に一般公開がスタート。マルタの歴史にふれられるスポットであるのはもちろんのこと、多数のヨットが停泊する華やかなマリーナやセングレアの町をはじめ、地中海とマルタ島の美しいパノラマを望むビュースポットとしても人気を集めています。
現在、下層部はマルタ政府の管轄になっていますが、砦の上階部分は騎士団の管理課にあり、団員が一人砦に住んでいるとか。
1798年に聖ヨハネ騎士団によるマルタ支配は終焉を迎えましたが、「マルタ騎士団」は主権実体(領土をもたない準国家)として存続しており、90ヵ国以上と外交関係を結んでいるというから驚きです。
ヴィットリオーザにおける戦いの歴史は、有名な大包囲戦だけにとどまりません。
騎士団がマルタを去った後、1800年から160年以上続いたイギリス統治時代にも、スリーシティーズは軍事戦略上重要な役割を果たしました。そのため、第二次世界大戦中は、枢軸国から度重なる砲撃や爆撃を受け、大きな被害を出すことになるのです。
ヴィットリオーザにある「マルタ戦時博物館(Malta at War Museum)」では、第二次世界大戦下のマルタを軍備や市民生活といったさまざまな切り口から紹介。
建物の地下に残された広大な防空壕に入ることもでき、戦時下の人々のリアルな暮らしぶりに触れられます。
現在の美しい町並みからは信じられないほどですが、マルタの歴史は戦争の歴史。マルタ戦時博物館には日本語のオーディオガイドも用意されているので、英語が得意でなくても大筋を押さえることができます。
波乱万丈の歴史を物語るスポットを訪れたら、路地裏の散策も楽しんでみたいもの。
ヴァレッタに比べるとずっと観光客の数が少ないヴィットリオーザでは、路地に入り込むと途端に人影が消え、時間が止まってしまったかのような静寂の世界が広がっています。
石畳の細い路地の両側には、はちみつ色のマルタストーンで造られた建物が並び、それぞれの家がドアの色やバルコニーの装飾、プランターなどで個性を主張しています。
魚の形など、面白い形をしたドアノブも。何気ない日常の風景ですら、はっとさせられるほど絵になります。
何度も戦場となりながらも、戦後の復元により美しい町並みを取り戻したヴィットリオーザ。
海を挟んで目と鼻の先でありながら、ヴァレッタとはまた違う個性をもつこの町は、マルタの歴史を語る上で欠かせない存在です。
Post: GoTrip! https://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア