1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを攻略して以来、オスマン帝国の帝都として栄え続けたトルコ最大の都市、イスタンブール。
イスタンブールの旧市街には、当時の面影が漂う歴史ある建築物が多く残されており、街全体が「イスタンブール歴史地区」として世界遺産にも登録されているほど。
そんな旧市街の目抜き通りは、トプカプ宮殿にまで続くディヴァン・ヨル。「御前会議通り」という意味のこの通りは、いまはトラムが走っていますが、オスマン帝国時代にはこの道を通って宰相や役人たちが宮殿に向かいました。
この通り沿いにはいまではレストランやカフェ、土産物屋が多く軒を連ねるようになりましたが、ひときわ目を引く美しい建築物がコジャ・スィナン・パシャの霊廟があるメドレセです。
大理石の湾曲や窓格子がなんとも優美で足を止めずにはいられないこのメドレセ内には霊廟や泉亭があり、敷地内の長方形の中庭には、学生たちのための17の部屋とそれに付随する大講義室があります。
スィナン・パシャが眠るこの敷地内の施設では、イスラム文化を学ぶ講義やクルアーンの翻訳、カリグラフィー(アラビア文字の書道)などのワークショップも開かれています。
旧市街の目抜き通りに沿って、かなりの面積を占めて建てられているこのメドレセが、何世紀にも渡って管理され、いまでもスィナン・パシャの魂の平安を願う訪問者が絶えないのは、彼が残した功績にあります。
1520年頃、当時のオスマン帝国領であった現在のアルバニアで生まれた彼は、貧しい農家に生まれ育ったにも関わらず、帝国の運命を左右するほどの才能の持ち主でした。
帝都イスタンブールの学院で学んだあと、当時のスルタン、スレイマン1世の食事を管理する職に就き、さらにムラト3世とメフメト3世の時代になると、スルタンに次ぐ重要なポジションである大宰相という役職にまで上り詰め、帝国を牽引しました。
大宰相の任務から外れ、エジプト総督の役職にも就いた経歴もあり、イエメンやチュニジアにおける重要な軍事指揮も執りました。キプロスを征服すると、チュニジアもオスマン帝国領になりましたが、1572年にスペイン海軍がチュニジアに侵攻すると、スィナン・パシャは、海軍の指揮を執ってチュニジアを再征服するよう命じられました。
彼の指揮のもと、伝説の海軍提督クリチ・アリ・パシャはチュニジアの征服に成功し、スィナン・パシャは「チュニジアの征服者」という肩書を与えられました。
また彼はは軍事面だけでなく、政治や財政面においても優れた才能を発揮しました。
例えば、イランのアッバス王と和平会談を行い、近隣国との戦争を避けることに成功したり、財政面においては、硬貨の質の向上に努め、新しい造幣所も設立しました。
1593年、オーストリアに対する軍事遠征が始まると、彼は度々オスマン帝国の多くの兵士を引率して戦地に出向き、いくつかの戦いにおいて勝利を収めました。敵地占領とまでは至らなかったものの、このときすでに70歳を超えていたことを考えれば、彼の軍事面での活躍は称賛に値します。
存命中は、学校、モスク、救貧院(イマレット)、泉亭、クルアーンを学ぶ上級の学校(darülkurra)、隊商宿、ハマム(公衆浴場)などを、アラブ諸国やバルカン諸国に多く築きましたが、それらは彼の収入を彼自身が寄付することにより造られたものがほとんどです。
1596年に病気になると、その数日後に亡くなってしまいます。このように、亡くなるまでオスマン帝国を牽引し偉大な功績を残したとして、「コジャ(偉大な)」という称号をつけられ、死後400年以上たったいまでも多くの人から尊敬されているのです。
スィナン・パシャのメドレセは、トルコ史上最高の建築家ミマール・スィナンの後を継ぐダヴート・アーによる設計によるという点も注目に値します。
旧市街を歩くときは、スィナン・パシャのメドレセにも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。オスマン建築の美しさと、スィナン・パシャが残した功績の素晴らしさをきっと感じ取ることができるでしょう。
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名前 スィナン・パシャ・テュルベスィ Sinan Paşa Türbesi
所在地 Mollafenari Mh., Bileyciler Sk. No:57, 34120 Fatih/İstanbul