「謹んでお伝えいたします。
畏(かしこ)きあたりにおかせられましては、この度詔書を渙発あらせられます。畏くも天皇陛下におかせられましては本日正午、おん自ら御放送遊ばされます。洵(まこと)に恐れ多き極みでございます。国民は一人残らず、謹んで玉音を拝しますように」
1945年(昭和20)8月15日の朝。日本放送協会はラジオを通じ、正午に天皇陛下の玉音が放送されると2度報じました。そしてその知らせは直ちに隣組を通じて各地域に伝えられ、職場も含め日本全国津々浦々にまで行き渡ります。
宮内庁「終戦の玉音放送」
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html
当時、各家庭にラジオ受信機なんてありません。「一体何の発表があるのだろう?」と、それでも全国民はラジオのある場所に集まり、姿勢を正し座してその時を待ちます。そして迎えた正午…。
今年もまたこの日を迎えました。
73年目を数えた平成最後のこの日を。
まずは大東亜の聖戦に殉じた多くの先人、大切な家族と祖国を護る為に散華された英霊に対し、皆様と共に感謝のまことを捧げたいと思います。
1963年(昭和38)に日本国政府は大東亜戦争の戦没者を310万人と発表しました。日支事変以降の戦闘で亡くなった軍人・軍属と関係者・国内外で戦災犠牲者となった民間人を含めての統計だそうです。
また、厚労省は戦没者を240万人としていますが、これは本土以外での戦没者の数です。国内においては広島・長崎の原爆、東京大空襲をはじめ全国に爆撃が繰り返され、結果約70万人という民間人が戦災被害者となったわけです。その被害の大きさ故に、先の大戦は民族存亡の危機だったといわれています。
■戦前日本は悪の枢軸なのか、西洋植民地支配とアジア民族解放
当時は戦時国際法があり、非戦闘員への攻撃は禁じられていました。しかし戦後に戦時国際法を犯したことで米国が裁かれたなんて話は聞いたことがありません。それどころか、日本人兵士の頭蓋骨を米国の親兄弟に送ったり、耳を塩漬けにして恋人にプレゼントしたなんておぞましい話は枚挙にいとまがありません。つまりは有色アジア人種の日本人は猿と同程度、凡そ同じ人間として見てはいなかったのです。
我が国は明治の開国以来、急激な近代化を遂げました。清国そして大国ロシアとの戦いを経て、軍事的にも列強入りを果たし、発言力を強めます。朝鮮併合や台湾を日本領とし、大東亜共栄圏を打ち出しアジアの独立と連携を進めたこと、そして支那へ兵を進めたこと等で、西洋列強の植民地利権の邪魔な存在となっていきます。さぞや忌々しく思われていたのでしょうね。
日本を戦争に仕向けたルーズベルトや、チャーチルもまたしかり。当時の白人至上主義・人種差別が最終的に日本を戦争に至らしめるまで追い込んでいったのです。
ねずさんのひとりごと「ルーズベルトニ与フル書 市丸利之助中将」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1416.html
先の大戦は西洋の白人による偏見や人種差別との戦い、アジア民族を西洋の植民地支配から解放する為の戦いでした。そしてその事実と大東亜開戦の大義を私たちは絶対に忘れてはなりません。
悪の枢軸、日本が、侵略と略奪を繰り返し、正義の連合国軍に徹底的に懲らしめられた…なんておとぎ話にもならないバカな妄言は、日本人の名誉にかけても許してはなりません!
■ポツダム宣言の受諾を決めた「御前会議」陛下の御聖断
「今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず 爾臣民(なんじしんみん)の衷情も朕善くこれを知る 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び 以て万世の為に太平を開かんと欲す」
この時期になると必ず耳にする先帝陛下(昭和天皇)の「終戦の大勅(大東亜戦争終結の詔書)」の一部です。この終戦の大勅は御前会議において、御聖断を降された陛下のお言葉を基礎に作られたものです。
1940年(昭和20)8月6日に広島への原爆攻撃が行われ、続いて8月9日には長崎が原爆の犠牲となりました。更にはソ連の対日宣戦の布告が行われます。これを受け同日夜、我が国では「ポツダム宣言」の受諾に関して御前会議が開かれます。
このポツダム宣言とは、米・英・支3国から突き付けられた日本の無条件降伏を要求する、いわば最後通牒でした。
9日の御前会議では「無条件降伏やむを得ず」とする派と「条件付きとすべきだ」と主張する派が互いに譲らず、会議は深夜にまで及びます。
そこで当時の鈴木首相が天皇陛下の前に進み出て御聖断を乞うたのです。
それまで御前会議中に陛下が御発言することはありませんでした。会議とはいえ予め決められたことが議事進行され、最終的に全会一致の形にお見せする上奏形式に過ぎませんでした。
その会議において陛下の御聖断を仰ぐということは異例の出来事だったのです。
「それでは自分が意見を言おう」
「自分の意見は、ポツダム宣言を受諾することに賛成である」
「念の為に理由を示す」
以下先帝陛下の御言葉が続きます。
「大東亜戦争がはじまってこの方、陸海軍のしてきたことを見ると、予定と現実の間に大きな隔たりがある」
「かくの如き状況で本土決戦というならば日本人は全滅しなければならない。そうすると国を後世に伝えることはできない」
「そうするとこの際決心をしなければならないと思う」
「しかし、このように戦争を終わることは永年信頼していた軍隊と別れることになる。特に外国にいる多くの軍隊のことを考えると胸のつまる思いがする。戦死者とその遺族、戦場で倒れた国民とその遺族、今も外国にいる国民たちの身の上を考えると胸のつまる思いがする」
「だから、この際しのびがたいのをしのんで、後世のために平和な途を開こうと思う。自分の一身のこと、皇室のことは心配しないでもよい」
途切れ途切れのぎこちない御言葉。それでもいつになく強い御言葉を話される陛下は、頬と眼鏡の奥を白い手袋でお触りになり、流れる涙を拭われたそうです。それを見た全員が涙したのはいうまでもありません。
8月9日の御前会議において、陛下より御聖断が降され、終戦とポツダム宣言受諾は決定しました。そしてポツダム宣言受諾の用意ある旨が連合国側に発信されます。この際に「天皇の国際法上の地位の変更を要求しないこと」「その了解を確認したい」ことが申し添えられました。
13日に連合国側より「日本の政治形態は国民の自由な意志に基づくべき旨」とする項目を含む3項目が正式回答されます。
■「一人でも多くの国民を残す」、戦後日本の復興を願われた大御心
そして迎えた8月14日の「最後の御前会議」で決定的な終戦の御聖断が降されます。
「改めて意見を言うので皆、自分の意見に同意してもらいたい」
「ポツダム宣言受諾に賛成である。天皇統治権について不明瞭とする向きもあるが、先方がよこした回答もあれで満足して良いと思う」
「自分の戦争終結に対する決心は、世界の大勢と我が国力の判断によった。よく考えた結果であり、他から知恵を借りたのではない」
「皇室と国土と国民がある限りは、将来国家が成長するに十分な根がある。しかしこれ以上のぞみのない戦いを続けるとすべてを失ってしまう」
「自分が信頼した軍人が武器を取り上げられたり、忠誠を尽くした人たちが戦争犯罪人として裁かれるかも知れないと考えるとたまらない。情においてしのびない」
「しかし、ことここにいたっては国を保ってゆく道はただこれだけしかないと考えるから、堪えがたきを堪え、しのび難きをしのんで、ポツダム宣言を受けることに決心した」
「しかしこれから日本の再建をしなければならない。それは非常に難しく、時間を必要とする。だが国民全体が一緒になり努力すればできないことはない」
「自分も国民とともに努力する」
「日本という国を維持できるのは一人でも多くの国民を残すことである」
先にも述べましたが終戦の大勅は陛下の御発言を全て記し、文語体にしたものです。本土決戦一億玉砕をもって君国に殉ずるという強硬な主張を止められ、生きて国家を維持し、後世に残すことを願われ、これを命じたのです。
終戦の大勅は終戦の宣言であると同時に、戦後日本の復興・再建に宛てた詔書ともいえます。「神州の不滅」を信じ日本人が未来永劫日本人であり続けるための心の拠です。天皇陛下を中心とする道義国家再建の大切さと難しさを説き、それでも君民一体となって世界に遅れず「国体の精崋を発揚」する日本の道をお示しになられたものだと信じます。
教育勅語に加えて、終戦の大勅は今後私たち日本人の大切な道しるべとなることでしょう。この「終戦の大勅」はネット上で簡単に閲覧可能です。また、多くの現代語訳や解説がなされていますので、改めて一読されることをおすすめします。
戦後70年に思う 「終戦の詔書」に残る深い傷痕 東京大学名誉教授・小堀桂一郎
https://www.sankei.com/smp/column/news/150803/clm1508030001-s.html
2015年8月3日 正論
終戦という未曾有の国難にあって、御自身や皇室のことは一切考えず、ただ国民を思い、国民を案じ、国民を心から信頼され、国家の存続を願われた昭和の大帝。
ことしのこの日もまた蝉時雨のなか、天皇陛下の大御心に触れる喜び、日本人であることの感謝を胸に「美しい祖国日本」へ思いを馳せたいと思います。
その建設を悲願としつつも、果たせぬままに散華された英霊の御霊とともに。