『我々は4年待った。
最後の1年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待とう。
共に起って義のために死ぬのだ。
日本を日本の真姿に戻し、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ』
【七生報国】 (七度生まれて朝敵を伐ち 国に報いるの意) と墨書きされた鉢巻き。欧州の軍服を想わせる洗練された制服と、純白の手袋がたばさむ銘刀・関の孫六。後ろの若き青年が仁王立ちして見護る中、敢えてマイクを使わず、自らの生身の体から発する肉声によって思いの丈を叫ぶ。
古来より日本民族、特に”もののふ”とされる者が「美しくも貴きこと」としてきた究極の作法。自らの生命を神、すなわち天皇陛下へ奉還することで生命以上の”ありがたき”ものへと昇華させる純粋且つ、厳粛なる儀式は…この時既に始まっていた。
こんにちは! チバレイです。
かねてより三島由紀夫・森田必勝両烈士の「義挙」についての文献を紐解き、私なりにその思いを汲み取ることに努めてきました。そこに”純粋な日本人”としての「祈り」と、”もののふ”としての「衿持」が在るからこそ、両烈士のとった行動は48年という時を経ても尚、変わらぬ輝きと美しさを放ち続けているのだと思います。そして、それは時に日本人の心に雷鳴の如く響き渡り、時に自らを省みる道しるべとして生き続けるのではないでしょうか。
昭和~平成と時代を経て、戦後も73年を数えます。その間に日本人は惰眠を貪ってきたといわれています。我が国に蔓延る欺瞞や偽善、数ある不条理は、敗戦によってもたらされた国民精神の崩壊に起因するところが大きいのではないでしょうか。
我が国は間も無く新しい御代を迎えようとしています。昭和を遠く離れた私たちが三島・森田両烈士の命を掛けた行動から学ぶべき事は多く「後に続く」事、その気概を持つ事は絶対必要にして、とても尊い事だと思うのです。
■48年前、三島は「憲法改正はクーデターでのみ可能」と考えていた?
『今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。
日本だ。
我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。
もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。
我々は至純の魂を持つ諸君が、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙にでたのである』
「激」三島由紀夫の檄文より
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
上空を旋回する報道ヘリコプターの騒音。バルコニー下に集められた1000名近くの自衛官からの怒号や野次によって悲痛なる魂の叫びは度々掻き消され、中断されます。しかし自身に向けられたそれ等の怒りや侮蔑も含めた、あらゆる戦後日本の抱える自己欺瞞、自己冒涜に対する怒りの雄叫は誰にも止められません。
「一緒に起とうという者は一人もいないんだな! それでも武士かぁ!」
「諸君は憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ!」
さながら舞台と化したバルコニー上で「天皇陛下万歳!」と三唱し、今や観衆となってしまった多くの自衛官、機動隊、報道関係者の混乱を後にし、主役たちは姿を消しました。
昭和45年(1970)11月25日。
世界的に有名な作家であった三島由紀夫と、彼を絶対的なる長とした「楯の会」の森田必勝・古賀浩靖・小川正洋・小賀正義の4名は東京市ヶ谷自衛隊総監部・益田兼利総監を表敬訪問します。
「楯の会」会員と共に自衛隊体験入隊を経て準自衛官として良好な関係を築いてきた三島由紀夫の訪問とあって、事前の訪問予約、自衛隊側の受け入れもスムーズに運びます。三島由紀夫が持参した”最上大業物”たる銘刀・関の孫六を見つつ歓談。
そして…… 刀を鞘に納める際、「パチン」と鍔鳴(つばなり)をたてた瞬間、その音を合図に計画通り各自が一斉に行動に出ます。結果、益田総監をその場で拘束して手足を縛り、人質とする事に成功。
やがて、異常に気づいた自衛隊幹部が部屋に突入を試み、乱闘となりますが、関の孫六で応戦する三島由紀夫によって負傷し、退却させられています。
この際に森田必勝より「自衛官を玄関に集める事、全てが終わるまで手出ししない事、もし守れない時は総監を殺害し自決する事」等が記された要望書が渡されます。
自衛官が正面玄関に集まり出した頃には警察の機動隊を含め、多くの報道関係者らが集まった様です。三島・森田がバルコニーに進み、自衛隊の建軍の本義に立ち返る事、その為の憲法改正の必要性、そしてそれらを武士たる自衛官と共に起ち、歪みを糺そうと獅子吼しました。
「クーデター」。つまりは自衛隊に決起を呼び掛けたのです。憲法上において自衛隊が国軍たり得ない事、そのために憲法改正が必要であると常々主張していた三島由紀夫は、やがて議会制度下での憲法改正が困難であると考えるようになります。『憲法改正はクーデターによってのみ可能である』と。
そして残された道、国軍への道を「治安出動」に見出だすようになります。時あたかも左翼勢力によるデモはし烈を極め、まさに革命前夜のごとき様相を見せていました。そんな時代背景の中、三島由紀夫と「楯の会」、そして自衛隊における同志によって立てられた【治安出動からのクーデター計画】とは以下の様なものでした。
『警察力で鎮圧できない事態、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、自衛隊の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。
ここに至って遂に、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、断固阻止する。
三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「あとに続く者あるを信じ」、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる……。』
三島と「楯の会」の自決ありきで立てられたこのクーデター計画も、60年安保ほどに広がりを見せなかった左翼勢力のデモが、警察力によって簡単に抑え込まれた事、自衛隊内部の同志とした人物の離反もあり暗礁に乗り上げます。
同時にそれは三島由紀夫からすると、自衛隊が国軍となる最後の機会を失ったことを意味するものでした。
■”文士”から”武士”へ!? 三島は「楯の会」で目指したものとは?
「楯の会」は民間防衛を目的として三島由紀夫たちが提唱した「祖国防衛隊」構想を前身とし、昭和43年(1968)に誕生しました。この祖国防衛隊構想は政界・財界に広く理解と資金協力を求め、日本の基幹産業に1万人規模の隊員を育成し、配置するというものでした。しかし、資金的な援助を受けようとする事で、数々の屈辱的な目に合い、三島由紀夫自身が全て自費で賄う事を決心するに至ったのです。
祖国防衛隊の民間将校として1ヶ月の自衛隊訓練を耐え抜いた5期100名の民族派学生を中心に「楯の会」として新たに発足したのです。
「楯の会」といえば制服姿が有名です。これは三島由紀夫が個人的に親交のあった西武グループの堤清二氏に依頼したものだそうです。フランスのド・ゴール将軍の軍服に倣った制服を作ろうとしたところ、ド・ゴール将軍の制服を作ったのが日本人で、尚且つ西武デパートに関係していたという巡り合わせがあったとか。
私たちが良く知る冬の制服と、夏用の純白の制服、これに制帽と靴、更には戦闘服と戦闘靴までがオーダーメイドで誂えられたとか。ボタンや徴章といった細部にまで三島由紀夫の拘りがあったそうです。
「楯の会」は当時の週刊誌等で取り上げられ、大きな話題となりました。しかしそれは同時に「三島の玩具の兵隊」と冷ややかな目を向けられる事、あからさまに馬鹿にされる事もあった様です…例のコンドームのCMは有名ですね。
下世話な話ですが、当時の価格で制服が冬・夏共に1万円といいますから現在の価値だと1着10万円に届かないくらいでしょうか。それを101人分。これに加えて自衛隊の訓練参加費用、通信費、交通費と全てを三島由紀夫が賄ったのです。実際に2年間で1500万円ほど「楯の会」に使ったとの事で「貯金が十分の一になってしまった」と笑ったとか。現在だと年間に5000万円近い予算を使った事になります。
因みに「楯の会」の名称は
「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」
「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」
この2首に由来したそうです。
三島由紀夫は生まれついての文学的才能を持った「文士」でした。学習院初等科の頃から歌や俳句を詠み、13歳にして既に作家としてのデビューを果たしています。東京大学法学部に進み大蔵省の官僚となるも、作家として生きることを決心し、昭和24年には「仮面の告白」を執筆。以降「潮騒」「金閣寺」と立て続けに優れた作品を世に送り出し、一躍日本を代表する作家に登り詰めます。ノーベル文学賞候補となるなど海外でも広く認められた作家の一人でした。
その三島由紀夫は昭和41年(1966)「英霊の聲」を書いた事で一つの転機を迎えます。この作品は2.26事件で決起し、処刑された青年将校の霊と、神風特別攻撃隊員として散華した若い飛行兵の霊が降臨するというもの。そして、天皇陛下の「人間宣言」と「2.26事件の際の振る舞い」に裏切られた! と、呪詛の言葉 ”などてすめろぎは人間となりたまひし”と唱えるというもので、この「英霊の聲」に「憂国」「十日の菊」を加えた3作品は「2.26事件三部作」として未だに高い評価を受けています。
この頃より三島由紀夫は青年将校の霊の憑依を受けたといわれています。ある新年の祝いの席で一緒になった旧知の丸山明宏(現・三輪明宏)氏は、三島由紀夫の右後ろに立つ青年将校の亡霊のことを告げます。
帝国陸軍の軍服に軍帽の顎紐を掛け、軍刀を杖ついた霊。三島由紀夫は二人ほど名を挙げ、三人目に「磯部浅一大尉」の名を挙げた途端、丸山氏は磯部大尉が誰なのかわからないにも関わらず、不思議と「そうだ! 磯部大尉です」と叫んだとか。
「英霊の聲」における天皇陛下に対しての「お怨み申す」という怨念はその時点で亡霊の聲であり、2.26事件の磯部浅一大尉の思想に立脚しているとの指摘が当初からなされていた様です。処刑に際し他の将校は「天皇陛下万歳」を叫んだのに対し、ただ一人それを拒んだ磯部大尉の怨念…。
しかしこの「英霊の聲」以降、日本人的なこと、真の日本人への覚醒がなされたかの様に天皇陛下への思い、恋闕の情をより明らかにし、愛国者としての行動を活発化させます。熊本県を訪れ、かのラストサムライのモデルとされた「神風連」について精力的な取材を行っています。また、東大で行われた全共闘との公開討論は今日も語り継がれています。そしてそれは「文士」としてペンを取ることから「武士」として刀を取る事に比重を変えた事、言い換えると文士として生きるよりも、武士として大義に殉ずる覚悟を決めたという事だと思うのです。
■そして、三島は「天皇陛下万歳」を叫び、「醜の御楯」となった……
「治安出動からのクーデター」が無くなった三島由紀夫は、最後の行動を目指します。それは凄惨でありながら美しくも尊い、死を以て言語となす「諫死」の作法でした。自らの死を以て決起とするのではなく、決起するが故に諫死を以て事をいさめる。それは近代ではおよそ事例を見ない事です。
100名の「楯の会」から森田・古賀・小川・小賀の4名に対して義挙に出る事、そこを死に場所とする事を打ち明けます。4名は共に死ぬ事を即答したといいます。当時の彼らは20代前半……その潔さと「いつでも死ぬ」という覚悟には感心するのみ。彼らの純粋な心情を思うと思わず涙しそうになります。
そして迎えた当日。
三島と森田はバルコニーから総監室に戻ります。
部屋に戻るなり三島由紀夫は服を脱ぎながら「仕方なかったんだ」「あれでは聞こえなかったな」とつぶやき、益田総監に対して「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」と言うと。上半身裸になりバルコニーに向かって正座し、両手で握った鎧通しを左脇腹に向けました。そして一気に……。
「楯の会」の古賀・小川・小賀3名は、三島・森田の遺体を仰向けにして制服をかけ首を並べて安置すると合掌しながら泣いたそうです。総監は「もっと思い切り泣け」といい、縄を解かれると「自分にも冥福を祈らせてくれ」と2人の首に向かって正座し、瞑目合掌しました。
「楯の会」の3人は総監とともに部屋を出て、日本刀を自衛官に渡し、警官に逮捕されました。この際に彼らには手錠を掛けない配慮がなされました。
こうして三島由紀夫という稀代の芸術家による奇跡の様な、神事は「完璧なる美」を以て幕を閉じたのです。
2.26事件で銃殺刑に処された青年将校、磯部浅一大尉の亡霊が、三島由紀夫に「などてすめろぎは人間となりたまひし」と書かせたといわれます。しかし三島由紀夫は最後に「天皇陛下万歳」を叫び「醜の御楯」の本懐を遂げたのです。
磯部大尉の怨念もろともに。
後日、東京および近郊の陸上自衛隊内でアンケート(無差別抽出1000名)が行われたそうで、大部分の隊員が「檄の考え方に共鳴する」と回答、「大いに共鳴した」という回答も一部あり、防衛庁を慌てさせたそうです。
今から48年前の「三島事件」「楯の会事件」とも「三島義挙」ともいわれる出来事は、その後の日本国内はいうに及ばず世界中に衝撃を走らせました。
「あとに続く者あるを信じる」とした両烈士の志はその後の「新右翼」の台頭を経て、野村秋介烈士たちによる「経団連襲撃事件」へと受け継がれ、野村烈士の朝日新聞社における大義に殉じた「自決」にまで至るのです。そして半世紀を経て今も尚、その系譜にある民族運動の根幹に「三島・森田両烈士の意志」は在るのです。
11月26日。義挙に参加された元楯の会会員・小川正洋氏(享年70)の訃報に接し、心より哀悼の洵を捧げたいと思います。
未々書き尽くせない歯がゆさを覚えつつ