LGBT問題をめぐる記事で一部から批判を受けていた新潮社が、9月25日に『新潮45』(同社)の休刊を発表した。大元となったのは、杉田水脈衆議院議員(51)が8月号に寄稿した論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」で、10月号ではその批判への反論を掲載した『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』がさらなる議論を呼んでいた。
同社の佐藤隆信社長は21日に「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」との声明を発表し、”謝罪はするが雑誌は続行”するものと見られていた。それがここに来て、一転しての休刊の発表となった。通常ならば、(たとえ新潮社が問題を認めたとしも)回収や次号での謝罪掲載という選択肢もあったはず。いったい新潮社を何がそこまで追い込んだのか。背後に見え隠れするのは「ポリコレ」を掲げる人たちの”行き過ぎた正義”である。
ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)とは「政治的・社会的に正しい言葉遣い」、つまり「公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語」とされる。ネットスラングに”ポリコレ棒で叩かれる”という表現があるが、これを振りかざして「差別だ」と騒ぎ立て、相手が謝罪させたり、今回のように休刊まで追い込む。正義を求めるあまり、自由な言論の場まで当然のごとく封殺していくのが特徴である。
まず言論誌である同誌に「言論での戦い」を提案するのではなく、即「廃刊」を勧めていたのが”知の巨人”と評される哲学者・内田樹氏(67)だ。新潮社からも著書を出している内田氏は、友人の編集者に次のようにアドバイスしたという。
「不買運動まで起こっているのだから休刊すべき」というロジックは、まさに「モリカケで騒がれてるからアベはやめろ」という論理にそっくり。案の定、同氏は「この事件が安部三選と同時期に起きたことは偶然ではないと思います」とコメントを重ねている。
だが、内田氏が「新潮社出版物への不買運動」をなぜか重要視するのも妙な話だ。和歌山市の「本屋プラグ」など、一部の書店や消費者ら(デモの呼びかけは市民運動家)が「新潮社のすべての出版物の不買」を呼びかけているが、はたして新潮社から著書を出している一般の作家やライターに罪はあるのだろうか。作家のろくでなし子さんも以下の素朴な疑問を呈している。
「新潮社が出している出版物だから」という理由で不買するのは、それこそリベラル派が批判する”いわれなき差別”ではないのか。
■新潮社を恫喝する”ポリコレやくざ”のような大物作家?
内田氏以外にも作家・平野啓一郎氏が「一雑誌とは言え、どうしてあんな低劣な差別に荷担するのか。わからない」と、新潮社の姿勢を批判。同じく作家の星野智幸氏も「差別の宣伝媒体を、会社として野放しにするべきではない」とツイッターでつぶやいている。
大物では高橋源一郎氏(67)も「小川論文とか、これ、『公衆便所の落書き』じゃん。こんなの読ませるなよ、読んでる方が恥ずかしくなるから! あと、事実でおかしいところが散見されたのだが、最強の新潮校閲部のチェック入ってないの? 謎だ」と、大作家とは思えない口汚さでツイートしている。
特に高橋氏は新潮社で多くの著作を持つ影響力の高い人物である。それゆえ新潮社がサイトで「十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません」と校閲への反省を述べているのも、大物作家への配慮があったのかもしれない。
結局、『新潮45』を追い詰めたのは、ほとんどが”LGBT”とは関係のない人たちなのだ。弱者が頼んでもいない(困ってもいない?)のに、ポリコレを掲げて、当事者の代わりに怒っている人たちばかりである。
『新潮45』同号には、むしろLGBTの人たちから高評価を受ける元参議院議員・松浦大悟氏論説も掲載されている。同氏は杉田氏の論文を受け止めた上で、問題点を指摘し、提案を行っている。このような当事者の声までかき消されているのは、本末転倒である。”ポリコレ”の美名のもと、LGBT問題について活発な議論がなされない状況を決して作らせてはならない。