■与野党とも国会・市町村議会が賛成決議、マスコミも加担した帰国事業

「この金日成の動きに日本側も一斉に乗りました。国会はもちろん、市町村議会にいたるまで帰国事業に対する賛成決議を出しています。日本は与党と野党がいつも争ってますが、この件に関してだけは全政党が賛成してるんです。また労働組合や青年団、婦人団体など様々な団体がありますが、これらもことごとく賛成しています。当時、日本は高度成長期を迎える直前の苦しい時でした。在日朝鮮人は邪魔な存在だったんです。もう少し後なら、労働力不足ということでこのようなことにもならなかったかもしれません」

川崎さんがいうように、帰国協力は超党派の共通方針であり、自民党内からも積極的な働きかけの記録が残っている。1958年11月に結成された『在日朝鮮人の帰国への協力会』には社会党・浅沼稲次郎委員長や共産党・宮本顕治書記長のほか、自民党・小泉純也議員(小泉純一郎氏の父)や鳩山一郎元首相(鳩山由紀夫氏の祖父)らが名を連ねている。そして、59年2月には、岸内閣(安倍晋三首相の祖父)も「帰国運動を認める」という方針を発表している。

ーーこの日本政府の動きに合わせるように、大手メディアも全力で帰国協力を打ち出していったと。

「メディアも総力をあげて、帰国協力のキャンペーンの一翼を担いました。テレビは隆盛前でしたから、主力は新聞や雑誌です。こぞって『北朝鮮は楽園だ』と報じ、そういう雰囲気を作り上げています。ぜひ、図書館で当時の記事を読んでみてください。『なんで日本で差別を受けて生きてるんですか』『子供たちも好きな学校に行けますし、病気もタダで直せるのに』とお祭り騒ぎのように、連日報じていたんです」

国を挙げてのキャンペーンが功を奏した結果、北朝鮮に渡った在日朝鮮人らは約9万3千人。永住帰国事業は84年まで続いている。その内、1831人が「日本人妻」だった。たまたま結婚した相手が在日朝鮮人だったという、純粋な日本人である。

■「ご先祖の墓を抱いて死にたい」日本人妻が受けた壮絶な仕打ち

そんな社会ムーブメントの最中の1960年、京都の朝鮮高校の学生だった川崎さんも北朝鮮に渡った。家族を残し、一足先に一人での渡航だった。だが、帰還船する中、対岸に見えるみすぼらしい北の国民を見た瞬間に「騙された」と悟ったという。待っていたのは、マスコミの喧伝した「楽園」とは程遠い貧困の新天地、北朝鮮の偽りのない正体だった。

こんな所に来たら家族まで死んでしまう、川崎さんは焦った。しかし、手紙などの通信手段は検閲もあり、自由に伝達できない。そこで川崎さんは日本で帰国にそなえる両親に「娘はこんなことを書くはずがない」という内容の手紙を送り続け、異変を伝えて家族の帰還を阻止したという。それでも川崎さんは生きる希望を失わずに、同地で高校に入学。大学で学んだ後、機械工場でエンジニアになる”エリートコース”を歩んだため、「比較的ラッキーだった」と振り返る。

「他の家族で帰国した在日朝鮮人たちは、帰還後、いきなり炭坑や鉱山に放り込まれた方も多かった。楽園だと信じてきたのに、そのような仕打ちを受けて、皆さん、驚いてパニックになっていました。北朝鮮の現実を知れば知るほど落ち込み、絶望していきました。でも、その中で最も酷い仕打ちを受けたのは”日本人妻”だったんです」

日本で育った在日朝鮮人は朝鮮語も話せず「ハンジョッパリ」と冷遇されるという話を聞いたことがある。しかし、それはあくまで同じ民族に対するイジメである。それよりも、ずっと厳しい処遇で虐待を受けたのは日本人妻だった。

「自分たちの国を併合した、にっくき日本の国民ということで徹底的に虐められました。どれだけ酷いイジメを受けたと思います? イジメ殺された日本人がいっぱいます!

私の友達にも、ある日本人妻がいました。彼女は、何か少しでもミスをすると会議で集団で攻撃を受けて吊るし上げられた。北朝鮮では多少体調が悪かろうと労働に出るのが普通なのですが、ある時、彼女のすごく顔色が悪かったんで別の友達が『私が班長に言ってあげるから休みなさい』と止めたんです。でも『後で文句を言われイジメられるから』と怖がって仕事に出て行った。仕事は道路工事でした。スコップを持って砂や砂利を掬うのですが、仕事を始めようとスコップを持った途端、そのまま座り込んで死んでいきました。それくらいイジメられたんです。

彼女の他にも、亡くなった日本人妻の友人がいました。彼女は『夜寝てても、もしかしたらこのまま日本に帰れなくて朝鮮でそのまま死ぬかと思って飛び起きてしまう。何としても日本の地にたどり着いて、ご先祖様の墓参りをして、墓石を抱いたまま私は死にたいの…』と常々言ってました。その彼女も結局は北朝鮮の地で死にました。彼女がどれだけ恨みを持ちながら死んだと思います?」

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