『民族の本(もと)ついのちのふるさとへ はやはやかへれ戦後日本よ』
額装が施された色紙に詠まれた和歌。
その独特な一文字一文字にはまるで魂魄が刻まれたかのような、観るものを惹き付けて離さない不思議なパワーを放つ。そんな我が家の額縁。
昭和の思想家・新国学・民族運動の重鎮にして伝統的純正右翼・大東塾の創始者 影山正治氏(明治43~昭和54)の辞世歌の一首。
『一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる』と影山正治氏は遺書を遺し昭和54年(1979)5月25日、最後の活動として元号法制化を訴え大東農場にて古式に則(のっと)り割腹の後、散弾銃により自決。
『身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに』
もう一首の辞世歌からも読み取れる通り、それは自身の身体と生命を玉串として捧げ、悲願をなすというあまりにも厳粛な儀式であり御祭だった。この自決から僅か12日後「元号法」は成立した。
こんにちは!チバレイです。
ご譲位・御代替わりを控え、我が国は改元の準備も行われています。元号とは一人の天皇が在位なされる間の年代に付与される称号のことです。大化の改新で有名な「大化」は我が国最初の元号です。現在の「平成」まで247もの元号があり、それはそのまま天皇を中心とした日本国の歴史であり輝かしい伝統でもあります。 その元号をめぐって、いくつか問題が生じているようです。
警察庁は改元に当たり運転免許証の元号表記を西暦に変更しようとする改定案を発表しました。有効期限のみを西暦表記にするとのことで「元号が外国人にわかり辛い」こと「マイナンバー制度に西暦が用いられている」ことから、西暦導入の必要性を強調しています。
元号は我が国独自の文化です。外国人の免許所有者が86万人(僅か1%相当!)いるからと伝統を変えてまで迎合する必要はありますか? これを機に今後、公文書がなし崩し的に西暦表記に変えられる可能性もあります。西暦が世界標準なのは理解しますが、あくまでキリストの誕生年が起源となった「キリスト暦」です。神武天皇暦たる「皇紀」を使用してはいけないのでしょうか? 因みに今年は皇紀2678年! 西暦に660を足すとわかりやすいですね。
■システム優先のあまり、新元号が事前公表されてしまう無礼
また、政府は新元号の発表を新天皇の践祚(せんそ)及び即位の一ヶ月前を想定していると公表しています。つまり新元号の事前公表をするということのようです。これは今上陛下の御代である平成の時代に、次の新しい天皇の時代の元号を発表するということなのです。「なるほどね」とスルーしてしまいそうですが、多くの問題を含んでいるようです。
皇室問題に詳しく、自身も神職家系である【國の子評論社】横山孝平 社主に今回の問題を解説して頂きました。
「我が国の元号は天皇と臣民たる国民の歴史です。その上で一世一元、つまり御一人の天皇に一つの元号とする大原則は『元号法』によって明かにされています。従って新元号の公表を新しい天皇の践祚前に行うことは一世二元となり、当然ながらそれを問題視しているのです。
そもそも元号は明治天皇、大正天皇、昭和天皇というように天皇陛下の生前の御聖徳を讃え、諡(おくりな)となります。従って今上陛下の御代に次の時代の元号が存在することはあってはならないのです。
今回の御譲位と践祚・御即位によって時代が変わる訳ですが、我々の目に見えるところはごく一部であり結果なのです。宮中では幾つもの儀式が催行なされ、神の業(わざ)によって御代替わりが行われるのです。これは国家的神事だと云って差し支えありません。決して政府機関が主体となって御代替わり、即ち改元が行われるのではありません。
改元がもたらすであろう生活への支障として、役所や会社での新元号への移行が挙げられます。先もって公表することで対応しろというのはあまりにも短絡的過ぎます。それは利便性のみ追い求め、結果伝統を棄損することに繋がりかねません。ならば政府主導の下で明確な手立てを示すべきです。
我が国は戦後の73年という時間をかけて多くの伝統的なことを排してきました。それは誰も否定できないでしょう。その排した伝統は一日も早く取り戻す必要があります。もちろん『伝統的であること』『伝統を守ること』と、時代錯誤であることは全く別ですから、その辺の勘違いは注意が求められるところです。
天皇は日本そのものであり、皇室の伝統即ち日本の伝統です。我々一人一人がこの件に問題意識を持ち、皇室の伝統や神事に敬意を払う。以て今上陛下の大御心に感謝し、新しい天皇の御代を日の丸とともに祝うことを願っています」
前述した影山正治氏の教えを継承する大東塾 不二歌道会は『元号は天皇と共にあるもの。新元号の事前公表は新しく皇位を践まれる皇太子殿下に対し奉り無礼である』とし『歴史的にも本義に照らしても不可であると断ずる』『政府には正道を誤らぬようこの点に留意した慎重な検討を求める』と声明を出しています。
■天皇陛下への”畏敬”なきところに、民族のアイデンティティはない!
私は今上陛下のお身体を心配申し上げています。マスコミが「生前退位」と意図的な報道を繰り返す中で、それでも譲位と皇位の継承は今上陛下の御気持ちなのだと。しかし私が見ている(見られる)ところはごく一部であって、その本質は「神事」であり神業によって御代(時代)が代わるということです。現代社会にあってそれは大変に神秘的で、伝統的でもあり神々しくも自然の理にかなったまさに「畏怖」すべきことがらなのです。
國の子評論社の横山社主によれば、少なくとも昭和の頃までは皇室に関する報道に際し、大東塾をはじめ民族派の重鎮に意見を求めることが多く見受けられたそうです。宗教的・歴史的観点、更には「道」として尊王を掲げる厳正な立場に照らされた意見は『皇室の威厳を保ち、誤った報道や誤解を招くことが無いように正しく理解され、機能していた』そうなのです。
しかし意図的な報道をしたいマスメディアは「正道」を唱える側から離れ、学者や言論人、文化人といわれる自分たちに都合のよい人々に皇室問題を語らせるようになりました。一度箍(たが)が外れると後はご存知の通りです。時に芸能人と変わらぬ扱いだったり、下世話なスキャンダルだったり…皇室の権威と品格を貶めることに躍起になっているとしか思えません。「正道」という箍が外れた現代日本にあって取り戻すべきものはあまりにも多いようですね。
かつて右翼・民族派の野村秋介氏(故人)は生前「右翼とは民族の触覚である!」と説いていたそうです。何と叙情的な表現でしょうか! 覚悟と自負、烈々とした気迫にどこか悲しみと悲壮感さえ感じてしまいます。そんな「街宣車に乗らない右翼」と民族運動の今後については近いうちに必ず書きたいと思います。
今回のコラムを書くことで、改めて皇室に対する畏敬の念を強くすることとなりました。乏しい知識をして皇室を語ることの難しさはもちろん、失言や誤りがあってはならない重圧。それでも思うのです「天皇陛下と皇室に感謝し敬意を払う。日本人であることを誇りに思う」そんな当たり前の感情さえあれば不敬を働くことも、国を売ることもないでしょう。況してや反天皇! などとデモをすることもないのです。
「普通の日本人の当たり前の感情」
それが愛国心であり、尊王の精神だと思ってやみません。来るべき新しい御代を一緒にお祝いしましょう!