■”文士”から”武士”へ!? 三島は「楯の会」で目指したものとは?

「楯の会」は民間防衛を目的として三島由紀夫たちが提唱した「祖国防衛隊」構想を前身とし、昭和43年(1968)に誕生しました。この祖国防衛隊構想は政界・財界に広く理解と資金協力を求め、日本の基幹産業に1万人規模の隊員を育成し、配置するというものでした。しかし、資金的な援助を受けようとする事で、数々の屈辱的な目に合い、三島由紀夫自身が全て自費で賄う事を決心するに至ったのです。

祖国防衛隊の民間将校として1ヶ月の自衛隊訓練を耐え抜いた5期100名の民族派学生を中心に「楯の会」として新たに発足したのです。

「楯の会」といえば制服姿が有名です。これは三島由紀夫が個人的に親交のあった西武グループの堤清二氏に依頼したものだそうです。フランスのド・ゴール将軍の軍服に倣った制服を作ろうとしたところ、ド・ゴール将軍の制服を作ったのが日本人で、尚且つ西武デパートに関係していたという巡り合わせがあったとか。

私たちが良く知る冬の制服と、夏用の純白の制服、これに制帽と靴、更には戦闘服と戦闘靴までがオーダーメイドで誂えられたとか。ボタンや徴章といった細部にまで三島由紀夫の拘りがあったそうです。

「楯の会」は当時の週刊誌等で取り上げられ、大きな話題となりました。しかしそれは同時に「三島の玩具の兵隊」と冷ややかな目を向けられる事、あからさまに馬鹿にされる事もあった様です…例のコンドームのCMは有名ですね。

下世話な話ですが、当時の価格で制服が冬・夏共に1万円といいますから現在の価値だと1着10万円に届かないくらいでしょうか。それを101人分。これに加えて自衛隊の訓練参加費用、通信費、交通費と全てを三島由紀夫が賄ったのです。実際に2年間で1500万円ほど「楯の会」に使ったとの事で「貯金が十分の一になってしまった」と笑ったとか。現在だと年間に5000万円近い予算を使った事になります。

因みに「楯の会」の名称は

「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」

「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」

この2首に由来したそうです。

三島由紀夫は生まれついての文学的才能を持った「文士」でした。学習院初等科の頃から歌や俳句を詠み、13歳にして既に作家としてのデビューを果たしています。東京大学法学部に進み大蔵省の官僚となるも、作家として生きることを決心し、昭和24年には「仮面の告白」を執筆。以降「潮騒」「金閣寺」と立て続けに優れた作品を世に送り出し、一躍日本を代表する作家に登り詰めます。ノーベル文学賞候補となるなど海外でも広く認められた作家の一人でした。

その三島由紀夫は昭和41年(1966)「英霊の聲」を書いた事で一つの転機を迎えます。この作品は2.26事件で決起し、処刑された青年将校の霊と、神風特別攻撃隊員として散華した若い飛行兵の霊が降臨するというもの。そして、天皇陛下の「人間宣言」と「2.26事件の際の振る舞い」に裏切られた! と、呪詛の言葉 ”などてすめろぎは人間となりたまひし”と唱えるというもので、この「英霊の聲」に「憂国」「十日の菊」を加えた3作品は「2.26事件三部作」として未だに高い評価を受けています。

この頃より三島由紀夫は青年将校の霊の憑依を受けたといわれています。ある新年の祝いの席で一緒になった旧知の丸山明宏(現・三輪明宏)氏は、三島由紀夫の右後ろに立つ青年将校の亡霊のことを告げます。

帝国陸軍の軍服に軍帽の顎紐を掛け、軍刀を杖ついた霊。三島由紀夫は二人ほど名を挙げ、三人目に「磯部浅一大尉」の名を挙げた途端、丸山氏は磯部大尉が誰なのかわからないにも関わらず、不思議と「そうだ! 磯部大尉です」と叫んだとか。

「英霊の聲」における天皇陛下に対しての「お怨み申す」という怨念はその時点で亡霊の聲であり、2.26事件の磯部浅一大尉の思想に立脚しているとの指摘が当初からなされていた様です。処刑に際し他の将校は「天皇陛下万歳」を叫んだのに対し、ただ一人それを拒んだ磯部大尉の怨念…。

しかしこの「英霊の聲」以降、日本人的なこと、真の日本人への覚醒がなされたかの様に天皇陛下への思い、恋闕の情をより明らかにし、愛国者としての行動を活発化させます。熊本県を訪れ、かのラストサムライのモデルとされた「神風連」について精力的な取材を行っています。また、東大で行われた全共闘との公開討論は今日も語り継がれています。そしてそれは「文士」としてペンを取ることから「武士」として刀を取る事に比重を変えた事、言い換えると文士として生きるよりも、武士として大義に殉ずる覚悟を決めたという事だと思うのです。

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