■そして、三島は「天皇陛下万歳」を叫び、「醜の御楯」となった……

「治安出動からのクーデター」が無くなった三島由紀夫は、最後の行動を目指します。それは凄惨でありながら美しくも尊い、死を以て言語となす「諫死」の作法でした。自らの死を以て決起とするのではなく、決起するが故に諫死を以て事をいさめる。それは近代ではおよそ事例を見ない事です。

100名の「楯の会」から森田・古賀・小川・小賀の4名に対して義挙に出る事、そこを死に場所とする事を打ち明けます。4名は共に死ぬ事を即答したといいます。当時の彼らは20代前半……その潔さと「いつでも死ぬ」という覚悟には感心するのみ。彼らの純粋な心情を思うと思わず涙しそうになります。

そして迎えた当日。

三島と森田はバルコニーから総監室に戻ります。

部屋に戻るなり三島由紀夫は服を脱ぎながら「仕方なかったんだ」「あれでは聞こえなかったな」とつぶやき、益田総監に対して「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」と言うと。上半身裸になりバルコニーに向かって正座し、両手で握った鎧通しを左脇腹に向けました。そして一気に……。

「楯の会」の古賀・小川・小賀3名は、三島・森田の遺体を仰向けにして制服をかけ首を並べて安置すると合掌しながら泣いたそうです。総監は「もっと思い切り泣け」といい、縄を解かれると「自分にも冥福を祈らせてくれ」と2人の首に向かって正座し、瞑目合掌しました。

「楯の会」の3人は総監とともに部屋を出て、日本刀を自衛官に渡し、警官に逮捕されました。この際に彼らには手錠を掛けない配慮がなされました。

こうして三島由紀夫という稀代の芸術家による奇跡の様な、神事は「完璧なる美」を以て幕を閉じたのです。

2.26事件で銃殺刑に処された青年将校、磯部浅一大尉の亡霊が、三島由紀夫に「などてすめろぎは人間となりたまひし」と書かせたといわれます。しかし三島由紀夫は最後に「天皇陛下万歳」を叫び「醜の御楯」の本懐を遂げたのです。

磯部大尉の怨念もろともに。

後日、東京および近郊の陸上自衛隊内でアンケート(無差別抽出1000名)が行われたそうで、大部分の隊員が「檄の考え方に共鳴する」と回答、「大いに共鳴した」という回答も一部あり、防衛庁を慌てさせたそうです。

今から48年前の「三島事件」「楯の会事件」とも「三島義挙」ともいわれる出来事は、その後の日本国内はいうに及ばず世界中に衝撃を走らせました。

「あとに続く者あるを信じる」とした両烈士の志はその後の「新右翼」の台頭を経て、野村秋介烈士たちによる「経団連襲撃事件」へと受け継がれ、野村烈士の朝日新聞社における大義に殉じた「自決」にまで至るのです。そして半世紀を経て今も尚、その系譜にある民族運動の根幹に「三島・森田両烈士の意志」は在るのです。

11月26日。義挙に参加された元楯の会会員・小川正洋氏(享年70)の訃報に接し、心より哀悼の洵を捧げたいと思います。

未々書き尽くせない歯がゆさを覚えつつ