■48年前、三島は「憲法改正はクーデターでのみ可能」と考えていた?

『今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

それは自由でも民主主義でもない。

日本だ。

我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。

もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。

我々は至純の魂を持つ諸君が、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙にでたのである』

「激」三島由紀夫の檄文より

http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html

上空を旋回する報道ヘリコプターの騒音。バルコニー下に集められた1000名近くの自衛官からの怒号や野次によって悲痛なる魂の叫びは度々掻き消され、中断されます。しかし自身に向けられたそれ等の怒りや侮蔑も含めた、あらゆる戦後日本の抱える自己欺瞞、自己冒涜に対する怒りの雄叫は誰にも止められません。

「一緒に起とうという者は一人もいないんだな! それでも武士かぁ!」

「諸君は憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。これで俺の自衛隊に対する夢は無くなったんだ!」

さながら舞台と化したバルコニー上で「天皇陛下万歳!」と三唱し、今や観衆となってしまった多くの自衛官、機動隊、報道関係者の混乱を後にし、主役たちは姿を消しました。

昭和45年(1970)11月25日。

世界的に有名な作家であった三島由紀夫と、彼を絶対的なる長とした「楯の会」の森田必勝・古賀浩靖・小川正洋・小賀正義の4名は東京市ヶ谷自衛隊総監部・益田兼利総監を表敬訪問します。

「楯の会」会員と共に自衛隊体験入隊を経て準自衛官として良好な関係を築いてきた三島由紀夫の訪問とあって、事前の訪問予約、自衛隊側の受け入れもスムーズに運びます。三島由紀夫が持参した”最上大業物”たる銘刀・関の孫六を見つつ歓談。

そして…… 刀を鞘に納める際、「パチン」と鍔鳴(つばなり)をたてた瞬間、その音を合図に計画通り各自が一斉に行動に出ます。結果、益田総監をその場で拘束して手足を縛り、人質とする事に成功。

やがて、異常に気づいた自衛隊幹部が部屋に突入を試み、乱闘となりますが、関の孫六で応戦する三島由紀夫によって負傷し、退却させられています。

この際に森田必勝より「自衛官を玄関に集める事、全てが終わるまで手出ししない事、もし守れない時は総監を殺害し自決する事」等が記された要望書が渡されます。

自衛官が正面玄関に集まり出した頃には警察の機動隊を含め、多くの報道関係者らが集まった様です。三島・森田がバルコニーに進み、自衛隊の建軍の本義に立ち返る事、その為の憲法改正の必要性、そしてそれらを武士たる自衛官と共に起ち、歪みを糺そうと獅子吼しました。

「クーデター」。つまりは自衛隊に決起を呼び掛けたのです。憲法上において自衛隊が国軍たり得ない事、そのために憲法改正が必要であると常々主張していた三島由紀夫は、やがて議会制度下での憲法改正が困難であると考えるようになります。『憲法改正はクーデターによってのみ可能である』と。

そして残された道、国軍への道を「治安出動」に見出だすようになります。時あたかも左翼勢力によるデモはし烈を極め、まさに革命前夜のごとき様相を見せていました。そんな時代背景の中、三島由紀夫と「楯の会」、そして自衛隊における同志によって立てられた【治安出動からのクーデター計画】とは以下の様なものでした。

『警察力で鎮圧できない事態、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、自衛隊の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。

ここに至って遂に、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、断固阻止する。

三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「あとに続く者あるを信じ」、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる……。』

三島と「楯の会」の自決ありきで立てられたこのクーデター計画も、60年安保ほどに広がりを見せなかった左翼勢力のデモが、警察力によって簡単に抑え込まれた事、自衛隊内部の同志とした人物の離反もあり暗礁に乗り上げます。

同時にそれは三島由紀夫からすると、自衛隊が国軍となる最後の機会を失ったことを意味するものでした。

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