福岡に移住して以来、神社を訪れる事が多くなりました。高名な神社から、小さな「村の鎮守の神さま」に至るまで、気の向くまま、足の向くままに。

神社の鳥居をくぐった際の空気の変わる様は、人間界から神々のおわす神聖な世界に入った様で、何とも心地よい緊張感を伴うものです。

静寂と、神々しさに包まれながら参道を進み、手水でお清めを行い、参拝の作法に倣って柏手を打った時、自然と込み上げてくる感謝の気持ちに

「ああ、私は日本人なんだ」
「ありがたいな」

と思わずにはいられません。

皆さま、神社に参拝しましょう!!

私たちの祖先は、八百万(やおよろず) の神々に感謝の祈りを捧げ、邪(よこしま)な念を打ち負かす事によって、日本人という素晴らしい素養を身に付けてきました。激動の時代を生きる私たちだからこそ、祖先に倣い、日本人として身を正すべきなのです。

こんにちは! チバレイです。

現在の我が国には神社・約8万1000社、寺院・約7万7000山があります。全国のコンビニエンス・ストアが約5万8000件だといいますから、実に4倍近くの神社・仏閣が私たちの近くに存在する事になります。それだけの宗教施設たる神社・仏閣に囲まれながらも「日本人は無宗教だ」といわれてきました。果たして本当でしょうか。

我が国の宗教(神道)は、太古の太陽崇拝と、山・森・草木の聖霊に対する自然崇拝、更には祖霊への畏敬の念と、それらに対する神聖なる儀式から始まったといわれています。それ故に、森羅万象全てに神々の存在を見出だし、鎮めと感謝の祈りを捧げる様になったのです。

それ等は永きを経て、”八百万の神 = 全てに神が宿る”という教えになったのだと考えます。つまりは「常に神々と共に我々はある」という極めてシンプルな教えであり、真理であったのです。従って、特別に教義・教典を必要としなかったのだと考えます。

それらの教えは脈々と受け継がれ、それこそ遺伝子レベルで身体の細胞の隅々にまで伝えられたのでしょう。結果、お爺ちゃんや、お婆ちゃん、両親から教えられた日常の何気ない約束事や、考え方はすんなりと受け入れられ「日本人としての真理」を、理屈抜きに修めているのだと思うのです。

これこそが日本民族独自の宗教観であり、日本人であろうとする事が信仰になるのではないでしょうか。

今日世界中で(一部は除く!)日本人の崇高な精神性は高く評価がなされ、信頼と尊敬を集めています。教義・教典に縛られない、特殊な信仰のお陰だと思えてなりません。

そして、その信仰=日本人の真理は【天皇陛下】というありがたい斎主を戴く事によってのみ、成立するのです。

天皇陛下は毎月3回の旬祭を含め、年間に60回近くの神事を、御自ら執り行われておられます。これを宮中祭祀といい、「民安かれ、国安かれ」と、国と国民のための祈りをなされているのです。

ところが、我が国では皇室祭祀令に基づき、宮中祭祀を「天皇陛下が私的に行う儀式」としています。

冗談ではありません!

「私」無き、天皇陛下が125代という永きに渡って、しろしめされたのが日本国です。穢れ多き政治家や役人が、法や憲法で自分たちに都合よろしく天皇陛下のご存在を「制度」にするなんて事は許されません。政教分離をいうなら公明党はどうなのでしょう? 宮中祭祀を斎行あそばされる事が宗教には当てはまるとは到底考えられません。

先頃、秋篠宮殿下が誕生日会見で、【大嘗祭】について宮内庁に対し、苦言を呈された事は記憶に新しいところです。

ご発言は、国費を使わず、費用を節約し、『身の丈にあった』神事に簡素化しようと促されたものした。国民の負担をできるだけ少なくしようというお考えと、「違憲だ」とする意見や、提訴する様な事がない様にとのご配慮を示されたのではないでしょうか。

そして、それが天皇陛下と皇室全体のお気持ちなのでは? と考えると…国民として申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

畏れ多くも、皇室に不敬を働く反日パヨク勢が「天皇陛下万歳」に帰依する事が無いとするなら、潔く日本から出て行って貰いたいものです。

それと! やる気のない宮内庁の、早急な人事の刷新も強く望むところです!

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