現在のトルコ・イスタンブールは、かつて東ローマ帝国最後の帝都コンスタンティノープルでした。「余はあの都が欲しい」と、コンスタンティノープルを攻略して東ローマ帝国を滅亡に追いやったオスマン帝国の皇帝メフメト2世は、帝都攻略後、ある門を通ってコンスタンティノープルの荒れ果てた街に入場し、アヤソフィア寺院に向かいました。

コンスタンティノープルを囲っていたテオドシウスの城壁は現在でもイスタンブールに所々残っています。当時難攻不落の城壁といわれていたコンスタンティノープルの城壁は、あのメフメト2世でさえ、攻略するのに多大な兵士と戦力、時間を要し、絶え間なく浴びせられた砲弾のせいで完全な形で残っている箇所はそれほど多くはありません。

城壁にはいくつかの門(トルコ語でカプ)があり、そのうちのひとつ「エディルネカプ」から、1453年5月29日、征服王メフメト2世は攻略した帝都に馬に乗って入場したのです。

「エディルネカプ」がある城壁は76メートルもの高さを持ち、イスタンブールの七つの丘に残る城壁の中でも最も大きな門として知られています。

この門に「エディルネ」という名が付いているのには理由があります。ビザンツ帝国時代にはポルタ・ハリシウス(Porta Harisius)と呼ばれていましたが、アンドリノポリス(Andrinopolis)とも呼ばれていました。これは、この門から続く道が、トルコ西端の街エディルネ(アドリアノーポリス)に続いていたためです。

保存状態が非常に良い「エディルネカプ」の門の横には、スルタンがこの門を通って市内に入場したことを示す石碑が埋め込まれています。またメフメト2世だけでなく、コンスタンティノープル攻略後にイスタンブールと名を改めたこの街からヨーロッパ方面へ歴代のスルタンたちが遠征に出向くときや、城壁の外にあるエユップ・スルタン・モスクに向かうときにも、帝国の要人がこの門を通りました。つまり「エディルネカプ」は、メフメト2世以降、オスマン帝国史上重要な人物が幾たびも通った由緒ある門なのです。

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