東洋と西洋の文化が交わるトルコ最大の都市、イスタンブール。この街は長い歴史の中で様々な宗教背景を持つ国に支配され、オスマン帝国時代には人種や宗教、それに付随する文化の多様性を認めながら、今日にまで発展してきました。

終日歩行者天国になっているイスティクラル通りやジェノア人が建てたガラタ塔で知られるイスタンブールの新市街には。「アラプ・ジャーミィ」つまり「アラブ人のモスク」という変わった名前のモスクがあります。一見教会のように見えるこのモスクも、宗教や人種を超えて現在に至るまで利用されている、いわばイスタンブールの歴史の縮図のようなモスクなのです。

いまではモスクとして、毎日の礼拝の時間には地元の人々が集まる場所となって新市街の街に溶け込んでいますが、この建物自体は、元は1325年にドミニコ修道会の会員によってローマ・カトリック教会として建てられたものでした。

14世紀にこの辺りに住んでいたジェノア共和国のジェノア人たちの管理下にあり、1453年にオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させてからもしばらくはそのままの状態でした。

しかし、コンスタンティノープルの対岸のこの地区に目をつけたメフメト2世は、1475年から1478年にかけてついに教会をモスクに改修しました。いまではこのエリアはカラキョイと呼ばれていますが、当時はガラタと呼ばれていたため、この時から「ガラタ・ジャーミィ」として知られるようになりました。

その後、バヤジット2世が1492年にスペイン異端審問によってイベリア半島を逃れてイスタンブールにやって来たアラブ系イスラム教徒にこのモスクを与え、モスク周辺に住まわせました。これをきっかけに、「アラプ・ジャーミィ」として今日まで呼び親しまれることになったのです。

中世に建てられた、イスタンブールに残る唯一のゴシック様式の建築物としても知られているこのモスクは、1731年のガラタ大火災のときに損傷し、マフムト1世の母サリハ・スルタンによって修復工事がなされました。このとき、ゴシック様式の一部がオスマン様式に建て替えられました。

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