ミュンヘンに次いで人口が多く、バイエルン州第2の都市と言われるニュルンベルク。
かつて多くの皇帝がニュルンベルクを好んで住み、ケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであったこの都市は、ドイツの歴史に今なお暗い影を落とす1人の人物によって、その輝かしい街の歴史を黒く染めることになってしまいます。
その発端が1933年8月30日から9月3日の間に、ここニュルンベルクでアドルフ・ヒトラーが開催した第5回ナチ党党大会でした。
そしてそのアドルフ・ヒトラーが指導して引き起こした第二次世界大戦が集結したのち、1945年11月20日から合計403回もの審理が重ねられ、戦争責任の追求が行われた場所も、ここ、ニュルンベルクでした。
今回は1945年11月20日から審理が行われ、1946年10月1日に判決が言い渡されることになったニュルンベルク裁判が行われた場所、「ニュルンベルク・フュルト裁判所」をご紹介したいと思います。
実はニュルンベルク・フュルト裁判所、現在でも使われており、裁判のない日だけ合計403回もの審理が行われた600号法廷も見学することができます。
そんなニュルンベルク・フュルト裁判所に、2010年11月21日、記念館がオープンしました。
記念館は600号法廷の上の階に建設され、実際に使われた被告席や当時の記録映像などを展示しながら、ニュルンベルク裁判の内容が紹介されています。
裁判がスタートする1945年11月当時、ドイツの最高指導者ヒトラーは既に自殺していたため、被告人として裁かれることはありませんでした。
自身の身体的欠陥に悩み、その苦悩を糧に勉学打ち込み、頭脳明晰でありながら、ナチス=ドイツの宣伝省大臣としてヒトラーの神格化とナチズムの浸透に尽力し「プロパガンダの天才」として知られるヨーゼフ・ゲッベルスも、最後までヒトラーに忠実に行動し、ヒトラー自殺直後に家族6人を道連れにして自殺してしまったため、被告人として裁かれることはありませんでした。
また、ヒトラーの個人的信任を背景に親衛隊や秘密警察ゲシュタポを統率、あの残虐なホロコーストを主導したとされるハインリヒ・ヒムラーもイギリス軍の捕虜となり自殺してしまったため、被告人として裁かれることはありませんでした。
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