そしてヒトラーの側近を長く務めその取り次ぎ役として権力を握ったマルティン・ボルマンは1945年11月当時は行方不明だったため、起訴はされたものの欠席裁判(死刑判決)となりました。(のちに青酸で服毒自殺していた事が判明しました)
そのため、裁判ではマルティン・ボルマンを含めた24名のナチス党幹部が裁かれました。
上流階級出身で当時ドイツ国民からの人気も高い第一次世界大戦時のエースパイロットの1人で、第二次世界大戦時に空軍総司令官、国家元帥、航空大臣、四カ年計画責任者を務めたヘルマン・ゲーリンク、ナチ党総統代理、無任所大臣を務め、党内初の親衛隊名誉指導者だったルドルフ・ヘス、そしてヒトラーが寵愛した建築家で軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーア、さらにはライヒスバンク総裁や経済大臣を務め、第一次大戦後のドイツ経済の立て直しに尽力したヒャルマル・シャハトなど、要職を任せられていた幹部がニュルンベルク・フュルト裁判所の600号法定で審理をうけ、それぞれの罪に対して判決が下されました。
その後、ニュルンベルク裁判の後に、1946年12月9日からアメリカ軍はニュルンベルク裁判で裁かれなかったナチ戦犯を裁くための軍事法廷を12ほど行い、それらの全てが最終的に終了したのは1949年4月13日でした。