社会主義体制の枠組みの中で民主主義改革を進めようとしたゴルバチョフはペレストロイカと銘打ち改革を進めようとします。残念ながら彼の理想は実現することはありませんでしたが、結果として社会主義体制そのものの放棄と、連邦制の崩壊を加速させてしまいます。
そしてとうとう1988年にポーランドで非共産党政権が誕生、またハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を獲得、社会主義体制は実質的な崩壊へとその歩みを進めていきます。
そして、1989年11月9日、ドイツ・ベルリンに歴史的な日が訪れます。
この日、出国規制を緩和するための新しい法案を東ドイツ政府は決定したのですが、時の政権の広報担当者が「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤った発表を行ってしまい、さらには、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまいます。
この驚きの記者会見がテレビやメディアで大々的に報道された結果、ベルリン市民はいつでも出国ができると勘違いし、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7カ所の国境検問所に殺到、対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もないなか、追い立てられるようにして東ドイツ側の国境ゲートを開放してしまいます。
雪崩のように多くの人々が東ドイツから西ドイツへと出国し、人々の大きなうねりは歓喜とともに、これまで堅牢で強大な物理的な障壁となっていたベルリンの壁を精神的に超え、実質的にこの瞬間、人々の心の中からベルリンの壁が消失します。
そして翌日、11月10日、どこからともなく現れたショベルカーなどの重機によって物理的にベルリンの壁は破壊され東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌年の1990年10月3日、長きにわたって分断されてきた東西ドイツ、ドイツ連邦共和国として再統一されました。
そしてベルリンの壁を崩壊させた活動が始まったここドイツ・ライプツィヒの「聖ニコライ教会」の内部には、様々な当時の様子が人々の奮闘の歴史とともに展示され、残されています。