ドイツ・ザクセン州で最も人口が多い都市ライプツィヒ。
旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目に大きなこの街は、バッハやメンデルスゾーンやシューマン、そしてワーグナーなどのドイツを代表する音楽家と関係の深い街として有名です。
また、ライプツィヒは、世界で初めて日刊紙が発行された街として、また世界で初めて見本市(ライプツィヒ・メッセ)が開催された街としても有名で、歴史と伝統が今も大切にされています。
そんな世界的に名の知られたこの街を最も世界的に有名にしたのが「ベルリンの壁の崩壊」の引き金となったと言われる「月曜デモ」です。いまでもライプツィヒに住む人はこの日のことを「革命」と呼び、誇りを持ってライプツィヒは革命の始まった街だと言います。
今回は、そんな第二次世界大戦によって民主主義陣営と共産主義陣営との2つに引き裂かれたドイツが、再統一を果たすための契機になった場所であるライプツィヒの歴史をご紹介しましょう。
日本の敗戦からさかのぼること2ヶ月前、アドルフ・ヒトラーの死によって国家社会主義ドイツ労働者党が事実上消滅、1945年6月5日連合国軍によってベルリン宣言が行われ、ドイツの主権は戦勝国であるアメリカ、イギリス、フランス、ソビエトの4カ国が掌握することが発表されます。
ライプツィヒのある中部ドイツエリアはソビエトの占領区となり、1949年にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した後は、他のドレスデンやケムニッツなどの主要都市と一緒に東ドイツの屋台骨を支える主要な工業地域として成長していくことになります。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ライプツィヒはその巨大なライプツィヒ中央駅(頭端式駅の中ではヨーロッパ最大の駅)に象徴されるように、むかしからドイツの交通の要衝でした。
それゆえ、経済的な側面だけでなく、西側の民主主義陣営との東側の交流窓口としても重要な都市として成長していくことになります。
東ドイツの情勢が大きく変わるのは第二次世界大戦後から強制的な社会主義化と政治的弾圧を行っていたソビエトの指導者スターリンが1953年3月に死去した後のこと。
スターリンの死後ソ連指導部は大きく方針を転換、東ドイツへの賠償請求を放棄、東ドイツ国内にあるソビエトの企業を東ドイツの国営企業とするなど、当時の世界をとりまく様々な状況を踏まえた上で東ドイツの全体を支えていく政策を進めていきます。
しかしながら、ハンガリー動乱などの影響もあり、高い教育を受けていた東ドイツの国民は西側へと移民し、多数の国民が流出し続ける状況は東ドイツの存在そのものを脅かしていきます。
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