鎌倉時代中期、我が国は2度に渡る大きな軍事侵攻を受けました。世に言う元寇で、モンゴル帝国と、その属たる高麗王国連合軍が軍船4000、約16万の兵(第二次侵攻)で攻めて来たのです。それ以前にも海賊行為や侵攻は有ったとされていますが、元寇に関しては規模からしても過去に無いほどの軍事侵攻だったのです。

最初の「文安の役」では現在の対馬、壱岐、佐賀県沿岸、そして福岡市が大きな被害を受け、多くの犠牲者が出ています。しかしながら勇猛果敢な日本軍の戦いと「台風以外の気象現象」とされる強風により敵は全滅してしまいます。

これを受け、幕府主導の下で大規模な湾岸防衛が行われます。防塁と言われる石築地で、高さ2メートルのバリケード。これが博多湾を20キロに渡って築造されました。長崎では松浦~平戸に掛けて約50キロに及ぶ防塁が残っています。

第一次侵攻からわずか7年。再び大規模な元による軍事侵攻「弘安の役」が有りました。前述した16万と言う武装勢力でしたが、防塁を前に博多湾上陸を断念。分散された兵は迎え撃つ日本軍と戦闘を繰り返しますが、またしても強風と高波に全滅してしまいます。

元寇を語る上でも、日本の宗教観を見る上でも大切な事ですが、神風については敢えて書き及んでません。

2度の日本侵攻の失敗は、その後の明で議論された日本征討論、そして軍事恫喝をもことごとく腰砕けにさせるほどのトラウマとなったようです。そして起こるのが「日本脅威論」。

~倭人はまるで狼。死を恐れず、例え相手が100人いても10人で立ち向かう。勝たなければ死ぬまで戦う。婦人も甚だ気性が激しく、犯すべからず~。

思うにこの教訓は、800年近く経た現在もどこかに密かに生きてるのではないでしょうか。何と言うか遺伝子レベルで。それ故に常に我が国を目の敵にして、口撃と恫喝を繰り返してる朝鮮半島・支那大陸の民族。

護るということは、闘う事が出来てこそ。闘えない、闘う覚悟も無いのに護ることは出来ない。護るための準備を用意周到に行い、情報を集め、何時でも迎え撃つ態勢を整える事が防衛だと思います。

我が国は領土・領海・領空の防衛について国民一人一人が覚悟を持たないといけないところに来ています。いつ「現代版・元寇」が起こっても良いように。

梅雨入りした糸島の海。この海底には未だ元の軍船の残骸が眠っています。歴史は繰り返すと言いますが、繰り返さない努力をすべきですね。

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