■ポツダム宣言の受諾を決めた「御前会議」陛下の御聖断

「今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず 爾臣民(なんじしんみん)の衷情も朕善くこれを知る 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び 以て万世の為に太平を開かんと欲す」

この時期になると必ず耳にする先帝陛下(昭和天皇)の「終戦の大勅(大東亜戦争終結の詔書)」の一部です。この終戦の大勅は御前会議において、御聖断を降された陛下のお言葉を基礎に作られたものです。

1940年(昭和20)8月6日に広島への原爆攻撃が行われ、続いて8月9日には長崎が原爆の犠牲となりました。更にはソ連の対日宣戦の布告が行われます。これを受け同日夜、我が国では「ポツダム宣言」の受諾に関して御前会議が開かれます。

このポツダム宣言とは、米・英・支3国から突き付けられた日本の無条件降伏を要求する、いわば最後通牒でした。

9日の御前会議では「無条件降伏やむを得ず」とする派と「条件付きとすべきだ」と主張する派が互いに譲らず、会議は深夜にまで及びます。

そこで当時の鈴木首相が天皇陛下の前に進み出て御聖断を乞うたのです。

それまで御前会議中に陛下が御発言することはありませんでした。会議とはいえ予め決められたことが議事進行され、最終的に全会一致の形にお見せする上奏形式に過ぎませんでした。

その会議において陛下の御聖断を仰ぐということは異例の出来事だったのです。

「それでは自分が意見を言おう」

「自分の意見は、ポツダム宣言を受諾することに賛成である」

「念の為に理由を示す」

以下先帝陛下の御言葉が続きます。

「大東亜戦争がはじまってこの方、陸海軍のしてきたことを見ると、予定と現実の間に大きな隔たりがある」

「かくの如き状況で本土決戦というならば日本人は全滅しなければならない。そうすると国を後世に伝えることはできない」

「そうするとこの際決心をしなければならないと思う」

「しかし、このように戦争を終わることは永年信頼していた軍隊と別れることになる。特に外国にいる多くの軍隊のことを考えると胸のつまる思いがする。戦死者とその遺族、戦場で倒れた国民とその遺族、今も外国にいる国民たちの身の上を考えると胸のつまる思いがする」

「だから、この際しのびがたいのをしのんで、後世のために平和な途を開こうと思う。自分の一身のこと、皇室のことは心配しないでもよい」

途切れ途切れのぎこちない御言葉。それでもいつになく強い御言葉を話される陛下は、頬と眼鏡の奥を白い手袋でお触りになり、流れる涙を拭われたそうです。それを見た全員が涙したのはいうまでもありません。

8月9日の御前会議において、陛下より御聖断が降され、終戦とポツダム宣言受諾は決定しました。そしてポツダム宣言受諾の用意ある旨が連合国側に発信されます。この際に「天皇の国際法上の地位の変更を要求しないこと」「その了解を確認したい」ことが申し添えられました。

13日に連合国側より「日本の政治形態は国民の自由な意志に基づくべき旨」とする項目を含む3項目が正式回答されます。

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