世界で唯一アジアとヨーロッパにまたがるトルコ最大の都市、イスタンブール。ヨーロッパ側の新市街地には、オスマン帝国時代の中期から後期にかけて建設されたモスクやスルタンの住まった宮殿などが多く残されています。そんな新市街にあるモスクの中でも、オスマン建築に西洋建築様式を取り入れた、一際美しいイスラム寺院「ヌスレティエ・モスク」をご紹介しましょう。

19世紀のオスマン帝国の帝都イスタンブールには、それまでのオスマン建築をベースにしながらも西洋の建築様式を取り入れた邸宅や宮殿、モスクが数多く建設されました。その多数はヨーロッパ側の新市街やアジア側のボスポラス海峡沿いに造られ、ベイレルベイ宮殿やドルマバフチェ宮殿、ドルマバフチェ・モスク、オルタキョイ・モスクなどがその代表的なものです。

スルタンの命を受けて、これらの建築の設計に携わっていたのは、当時の宮廷建築家でアルメニア人のバルヤン一家でした。バルヤン一家は、1500年代後半から盛んになったバロック様式を従来のオスマン建築に取り入れながら、実に100棟以上の大小様々な建築の設計を手掛けました。

バルヤン一族の中のクリコル・バルヤンが手掛けたのが、新市街のモスクの中でも規模が大きく一際美しい「ヌスレティエ・モスク」です。クリコル・バルヤンは時のスルタン・マフムト2世によってこのモスクの設計を任され、1823年に建設を開始しました。

ボスポラス海峡沿いにあるこの場所は、当時大きな火災があり、この地区を再建復興させるためにモスクの建設が命じられたのです。

モスクの建設中、帝国の西洋化を試みていたマフムト2世は、オスマン帝国常備軍歩兵イェニチェリに頭を悩ませていました。イェニチェリは当時西洋化に反対しており、マフムト2世を即位させた大宰相を殺害するなどの反乱を起こしていたのです。しかし1826年、ついにマフムト2世は旧式軍イェニチェリを廃止し、新式の軍隊を構成してオスマン軍を西洋化へと導くことに成功しました。

このような経緯から、このモスクにはヌスレティエ、つまり勝利という名がつけられたのです。

ヌスレティエ・モスクの外観は、天に突き刺さるような細い2基のミナレット、ドームに施された西洋風のデザインが特徴です。その見た目から、このモスクがオスマン帝国後期の作品であることは明らかです。

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