■ブラックだからこそ育つ「プロ」もある!? 「個より公」の精神が支えた日本の高度成長

平成の初頭。当時の撮影所には、昭和の映画を担ってきた人たちが、未だ多く居ました。今日ではパワハラで訴えられてもおかしく無い程の、凄まじい怒鳴り声と叱責。ロケバスにはトイレもないし、身体中いつでもあざと傷だらけ。今では完璧にブラック認定されそうです。でも、当時はそれが普通、当たり前でした。

そんなピリピリした厳しい中で、カメラ、音声、照明……とそれぞれのセクションで、人が人を育て、プロの誇りある仕事が産み出されていたのです。まさに職人の世界、日本的な徒弟制がそこにあったのです。

東映にも労働組合は存在します。

かつて劣悪な労働環境を改善すべく、会社側と交渉を重ね、時にストライキをしながらも、「より良い映画作品を創る」という大義を、労使共に共有していたと聞きます。当時と比べ、労働環境は素晴らしく改善されています。

東映に限らず、かつての労使間には、上手にバランスを取り、可能な限り譲歩しつつも、最良の結果を出すという、誠実な(?)駆け引きや、健全さ、ある意味の良識と、豪胆さがあった様に感じます。

私は法で定められた以上、労働組合という存在を否定はしません。労働基準法、あるいは労働組合法も遵守します。

しかし! しかしながら、先日、あるバンドの『HINOMRU』という曲に抗議した街宣車が、とある労働組合の車体と一致してるのではないかという話題がソーシャルメディア上を賑わせました。

(※:上の「一致した」話題とは別件で、同抗議のニュース)

また、デモや集会に組合員(一般社員)を動員し、その日当や、経費は組合費から賄う様なイデオロギー色の強い、「政治活動としての労働組合」の在り方には疑問どころか、不快感さえ感じます。同時に、労働問題と称して企業を陥れ、恐喝するような組合は、消えて無くなれば良い、とさえ思っています。

今の労働組合の活動は、およそ日本的ではない、他の国の出来事のように思えて仕方ないのです。もちろん、真面目に労働者の為に活動する組合もあると信じています。

労働は「個人の生活の為の、糧を得る為の職場」であることを前提とします。が、かつては個人が仕事を覚え、成長すること、良い仕事を行うことで、社会に貢献するといった、【個より公】の方により比重が置かれていたように感じます。それが社会人だと。もちろん前時代的、封建的な側面も少なからずあり、現代社会に適さない部分も有るとは思います。しかしその労働のあり方が、戦後日本の高度成長を支え、今日の繁栄を築いた事は紛れもない事実です。

もしも今日、同様のことを求めたらどうなるでしょう?「即、労働基準局へ通報!」「組合介入で、団体交渉からの解決金支払い!」なんてことに。「24時間働けますか?」なんてCMは「36協定違反を煽る」とのクレームから放映中止かも(笑)!

先人が苦労して築いた繁栄にどっぷり浸かり、厳しさや、努力を避ける。一生懸命な姿勢は「ウザイ!」の一言。こんなのはおよそ日本的ではないと感じます。労働組合の言い分一辺倒では「プロ」は育たないし、第一、国際社会での過当競争に勝ち残っていけるのでしょうか。あ… 仕分け大臣に怒られそうですね(笑)! 別に「一番である必要はありません」からね(苦笑)……。

歴史に「たら・れば」はありません。それでも、もし個人優先の米国的労働概念・組合の考え方が、GHQによって導入されなかったら。「労働階級とブルジョアジーの階級闘争」とする「あの」思想と、赤い旗を防げていたら……もっと現代日本に適した、日本人らしい日本の労働環境・組合・社会が作り出されたのでは無いか!と思えて仕方がないのです。

私は東映という、古き日本的な職場環境の中で育ちました。いえ、叩き込まれました。そこは完全なる師弟制度・徒弟制度の世界でした。そこでプロとしての自覚と技量を身につけることができました。そして、それは今も私の誇りであり、絶対に揺るがない「根っこ」なのです。