1444年にはエジプト、1480年にはオスマン帝国のイスラム勢力からの襲撃を受けるも、騎士団はこれを退けます。
当時、聖ヨハネ騎士団が中東のイスラム勢力と戦う唯一の主要な騎士団となっていたため、ヨーロッパから多額の寄付が集まったうえ、騎士団員は貴族の出身者が多かったため、騎士団の財政は潤沢だったのです。
騎士団員は出身地、言語別にプロヴァンス、オーベルニュ、フランス、イタリア、アラゴン、イングランド、ドイツ、ポルトガルとカスティーリャの8つのグループに分かれており、それぞれに館が設けられていました。
ロドス島で順調な活躍を見せていた聖ヨハネ騎士団ですが、ついにロドス落城の時が訪れます。
1522年、オスマン帝国の第10代スレイマン1世がロドスに来襲。必死の攻防を繰り広げるも、オスマン帝国の軍勢20万人に対し、騎士団側は7千人ほど。
この「ロドス包囲戦」に敗れた騎士団は、やむなくロドス島を明け渡して、シチリア島(現イタリア)に撤退しました。
聖ヨハネ騎士団の歴史において、マルタ島の出番がやってきたのは1530年のこと。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、イスラム勢力に対抗するキリスト教徒の砦とすべく、聖ヨハネ騎士団に当時忘れ去られていたマルタ島を与えます。
マルタに拠点を移した騎士団は、商業と貿易の発展に力を入れ、マルタ経済を潤しました。
騎士団がマルタで最初に砦を築いたのが、ヴァレッタの対岸に位置するヴィットリオーザ。
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