オスマン帝国の最盛期はスレイマン大帝の時代、とよく言われますが、彼がそのように評されるのは、先代のスルタンの努力による基礎があってこそ、ということを忘れてはいけません。

スレイマン大帝の父セリム1世は、ヤヴズ(Yavuz)、つまり「冷酷者」それゆえに「卓越した者」と呼ばれるほどの業績を残していることは、あまり知られていません。

セリム1世は、物心ついたころから父バヤジット2世の消極性に不満を抱えていました。上に兄弟がいたため、スルタンの継承順位は最下位であったのにもかかわらず、1512年に常備軍歩兵イェニ・チェリに擁立されて兄たちを排除すると、なんと父までをも退位させて自らスルタンの地位についたのです。

先代までのスルタンは、主にバルカン半島方面の進出に力を入れていたのとは対照的に、セリム1世は東方の領土拡大を推し進めるという政策をとりました。アナトリア半島におけるサファヴィー朝の妨害を排除し、現在のイラク北部にあたるクルディスタンや南アナトリアも制圧し、さらに東へ領土拡大を進めました。

またセリム1世はアラビア半島へも目を光らせていました。北アフリカのアルジェを占領、さらにマムルーク朝を滅ぼし首都カイロを落とすと、シリア、エジプト、パレスティナまでをも併合したのです。アッバース朝も完全に滅ぼし、聖地メッカ、メディナをオスマン帝国の保護下に置くまでに帝国を拡大させたことは、セリム1世の最も大きな業績のひとつであり、帝国をスンナ派イスラム世界のトップの座に押し上げることに成功したのです。

即位から9年後、病気を患って亡くなるまでの在位期間はわずか8年ほどであったのにも関わらず、この間にセリム1世は父バヤジット2世から受け継いだ領土を約3倍にまで拡大し、帝国の最盛期の土台をしっかりと造り上げたのちに、息子スレイマンに次のスルタンの座が継承されたのです。

そんなセリム1世は、コンスタンティノープルを陥落させた征服王メフメト2世を凌ぐほどの実力者と評されることもあります。セリム1世は、金角湾を見渡すことができるイスタンブール旧市街の小高い丘にある自身のモスクの敷地内の霊廟で眠っています。その棺の大きさや豪華な装飾、ほかの霊廟では感じることができない独特のずっしりとした雰囲気が、彼の偉大さを物語っています。

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