オスマン帝国時代、スルタン(オスマン帝国の皇帝)と同等の権力を与えられて国政に携わっていたトゥルハンという女性をご存知でしょうか。

オスマン帝国第19代スルタン、メフメト4世の母トゥルハンは、政治の面でも建築の面でも権力を発揮し、ハレムでの女人統治の頂点を極めた母皇后として知られています。

しかし、トゥルハンは最初からオスマン帝国のハレムで権力を持っていたわけではなく、権力を持つまでの彼女の人生はむしろ波乱万丈なものだったのです。

トゥルハンが眠る美しい霊廟をご紹介する前に、彼女がハレム支配の頂点を極めるまでに送った波乱な人生をご紹介しましょう。

トゥルハンは1627年に現在のウクライナで生まれました。ウクライナの王子の娘として生まれたものの、12歳のときに兄弟とともにタタールに連れ去られ、奴隷としてクリミア・ハン国からオスマン宮廷に献上されたのです。彼女を奴隷として引き受けたのは、オスマン帝国第18代スルタン、イブラヒムの母であるキョセム妃でした。

キョセム妃は当時ハレムで権力を握っていた母皇后です。キョセム妃は、自分の息子イブラヒムの血をのちのスルタンに継がせるべく、奴隷トゥルハンをイブラヒムに娶らせ、トゥルハンにメフメトを産ませました。これがのちのメフメト4世です。

イブラヒムが失脚すると、メフメト4世がスルタンの位に就きました。ついにトゥルハンが母皇后としてハレムで権力を握る日がきたかのように思われましたが、キョセムは自らの権力を振るうことをやめようとはしませんでした。ここにキョセムとトゥルハンの権力闘争が始まります。

ハレム内での争いを好まなかったトゥルハンは、黒人宦官長や大宰相に助けをうまく借りながら徐々に地位を確立していき、数年後にハレム内でキョセムが亡くなると、トゥルハンは完全にハレム支配の権力を手に入れたのです。

トゥルハンは、息子メフメト4世の信頼を受けてオスマン帝国の政治に大いに介入しました。メフメト4世自身も母を共同支配者とみなすほどで、トゥルハンは国政を運営するのにスルタンと同等の権力を与えられた帝国史上唯一の母皇后となったのです。

政治面以外では、イスタンブールにおける建築の面でも権力を発揮しました。その最も有名なものが、メフメト3世の頃から建設工事が滞っていたモスク「イェニ・ジャーミィ」を完成させたことと、そのモスク周辺にバザールを造らせたことでしょう。このバザールは現在は「エジプシャン・バザール」や「スパイス・バザール」として知られており、イスタンブール観光には欠かすことができないスポットにもなっています。

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