ローマ、2023年6月19日 - 数千年の歴史を誇るラルゴ・アルジェンティーナの聖域が、再び一般公開されます。共和国時代、帝国時代、中世時代、そして1920年代と1930年代に行われた取り壊しによる前世紀の再発見に至るまでの歴史の各段階を発見しながら、初めて体系的にアクセス、そして見学することができるようになりました。この作業は、カピトリーナの文化遺産管理局の科学的指導のもとで行われ、ブルガリの後援により実現しました。

聖域の聖堂跡の壮大さは、現在至近距離から鑑賞することができます。何十年もの間、地元の人々や観光客が街角からしか見ることができなかった建造物と同じ高さで、その詳細や建設段階を観察することができるようになりました。一方、サン・ニコラ・デ・チェザリーニ通りから遺跡へは歩道でアクセスすることができ、また足の不自由な方はエレベーターを利用してアクセスすることが可能です。現地では不整地や凹みが取り除かれており、車椅子での見学が可能になりました。中世のトッレ・デル・パピートのポルティコ(チケット売り場)と、現在はサン・ニコラ・デ・チェザリーニ通りの下の部分に相当する聖域東側の境界に位置する2つの展示エリアは新しい特徴となり、ファシスト政権下で行われた発掘や取り壊しから出土した数々の遺物の一部を展示しています。

数世紀にわたる遺跡の変遷を伝えるため、全周にイタリア語と英語の解説パネルが設置され、多数の写真が掲載されています。また視覚に障害のある方にも配慮し、2枚の大型触覚パネルと3Dスキャンによる展示物―果物をついばむ鳥を描いた板碑の断片並びに女性教団像の巨大な頭部―を用意しています。

ローマ市文化評議員のミゲル・ゴトルは次のようにコメントしています。

「ブルガリ・グループの重要な後援によるこのプロジェクトのおかげで、ローマで最も美しく貴重な場所のひとつにようやくローマ市民や観光客が完全にアクセスできるようになりました。今後、この街の歴史における様々な時代の素晴らしい考古学的発見を間近で見ることが可能となります」

ブルガリ・グループCEO ジャン‐クリストフ・ババンは、下記のコメントを寄せました。

「この考古学的、建築的な宝石は、永遠の都を世界でも類を見ない魅力的な時代と様式の組み合わせの貴重な証であり、住民や観光客がアクセスできるようにすることに貢献できたことを誇りに思います。このプロジェクトは永遠のインスピレーションの源であり、芸術、文化、伝統の交差点であるローマとの深いつながりを、私たちが再び祝うことを可能にするものなのです。聖地では歴史の息吹を感じることができます。私たちが間近で鑑賞できるこれらの壮大な遺跡は、私たちの文明を築いた帝国の偉大さを物語ります」

監督官のクラウディオ・パリジ・プレッシェは以下のように述べました。

「共和制ローマから皇帝の時代、貴族の邸宅、教会、修道院としての再利用、1920年代の取り壊しなど、二千年以上にわたる歴史の断面を鑑賞することができるようになりました。本日から鑑賞が可能となったこの素晴らしい結果は、公共部門と民間部門の実りある協力によって実現したものであり、ブルガリ・グループに深く感謝申し上げます」

※歴史的背景

1926年から1929年にかけて、テアトロ アルジェンティーナ通り、フロリダ通り、S.ニコラ・デ・チェザリーニ通り、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世通りを結ぶ地区で、新しい建物の建設に伴う解体工事により、広大な舗装された広場が発見されました。その上には4つの聖堂が建っており、確実な識別ができないため、一般にアルファベットの最初の4文字で呼ばれています。それらは、フェロニアに捧げられたといわれている聖堂C(建立 紀元前3世紀初頭)、ユトゥルナに捧げられた聖堂A(建立紀元前3世紀半ば)、ニンフまたはラリ・ペルマリーニに捧げられた聖堂D(建立紀元前2世紀初頭)、フォルトゥナに捧げられた聖堂B(建立紀元前2世紀末)と言われています。聖地に隣接するポルティチ・ディ・ポンペオの複合施設は紀元前1世紀中頃のものであり、クリアと呼ばれる聖堂Bと聖堂Cの背後にある石灰華の土台でユリウス・カエサルが暗殺されたと言われています。

西暦80年に起こった火災でカンプス・マルティウスの大部分は壊滅的な打撃を受けた結果、ドミティアヌス帝時代の聖堂の改築や現在も残っているトラバーチン板の舗装など、この地域は大きく変化しました。

5世紀には建物の放棄と変容が始まりました。その後、8世紀から9世紀にかけて、貴族の館と言われる建物が建築されたと考えられています。1132年に聖ニコラウスに捧げられたこの教会は、当初はカルカラリオ聖堂、後にチェザリーニ聖堂と呼ばれました。バロック時代には中世の教会の上に新しい聖堂が建てられましたが、総督府により取り壊されました。