北海道南西部を震源とする「北海道地震」は、死者が30人を超え、いまも震源に近い北海道厚真町では行方不明者の救助活動が懸命に続いている。北海道全域での停電も政府・自治体、電力会社の努力もありほぼ全道で回復した。

直近でおきた台風21号での関西を中心にした被害、さらには今夏の豪雨での西日本の被災、酷暑での被害なども続いていた。日本が自然災害にこれだけ厳しく直面した夏は過去にどれだけあったのだろうか。現場で救助活動を続ける方々や、また被災された人たちにとっては、ネットでの論評など高見の見物でしかないと思う。その点では実に申し訳ない。だがネットでの議論でもさまざまな意見が飛び交い、それが時には唖然とするような内容であるときは黙認することはやはりできない。

例えば鳩山由紀夫元首相の次のツイッターの発言にはやはり呆れるしかなかった。

「台風による関空の閉鎖、地震による千歳空港の閉鎖。相次ぐ甚大な被害は想定外では済まされません。地球環境の悪化により自然災害はさらに深刻になります。補修すべき道路、橋、建物は山ほどあります。不要な軍事費は削り、日本の国土のメンテに当てるなど、概算要求を大きく見直すべきでしょう。」

「コンクリートから人へ」を主張し民主党政権を実現させた人物の発言とは思えない。本当に「補修すべき道路、橋、建物が山ほど」あるという認識ならば、過去の自分たちが掲げたスローガンは何だったのだろうか?

いまでも民主党政権の経済政策を弁護して、その時代の方が素晴らしかった、という人たちがいる。だが本当だろうか? 日本のインフラ投資はその予算額を90年代から一貫して減らしてきた。その背景には、財務省の緊縮主義の採用がある。またインフラ整備を直接担う国土交通省もまた財務省の緊縮主義に拘束された発想を抜け出すことができない。民主党政権こそはこの緊縮主義にもっとも呪縛された政権だったのではないか? 別稿ですでに論じたが、最近でも鳩山氏が重要性を強調した「治山事業」も民主党政権のときに大きく減少している。具体的には、2008年度は1052億円、09年度は991億円だったものが、民主党政権では688億円(10年度)、608億円(11年度)、574億円(12年度)と急減だ。

インフラ整備をするかどうかを判断する手法に費用便益分析がある。建設やメンテナンスのコストよりも地域住民や国民のうける経済的利益が上回れば、そのインフラ投資を行うことが経済的に望ましいという分析手法だ。最近では、費用便益分析の手法もかなり精緻化されている。単純な経済的な損益の比較だけではなく、長期間の予測困難なリスクやまた自然災害を適切に評価する枠組みを入れ込んだ、多次元的な費用分析の手法もいまや一般的になりつつある。ムダなインフラ整備ではなく、自然災害に備える積極的で、かつここが重要だが恒常的なインフラ整備への支出が必要だ。後者のような恒常的な財政支出が行われれば、高度なノウハウのいるインフラ整備を担う現場の人たちを育成することにもつながる。財政政策の効果をしばしば損ねる公共事業の供給制約(人手不足など)も緩和されるだろう。

そのためには省庁的な枠組みをつくるのも一案である。米国の経済学者スティーブン・D. ウィリアムソン教授が『マクロ経済学』(東洋経済新報社)で主張したように、財政政策は一時的なものだとその効果は著しく減少してしまう。そのため省庁を作った方が、そのインフラ整備の財政支出が恒常的に支出されると人々が期待することで、経済の安定に寄与するだろう。その昔、「国土強靭省」を提案したこともあったが、実際に省庁を新たにもうけるかは別にしても、必要なインフラ支出が長期的に増加していくことは必要であるように思う。それは緊縮主義と対決することに他ならない。

先の鳩山氏の発言は、彼が「コンクリートから人へ」に内在していた緊縮主義をいまだに捨て去っていないことがわかる。それは防衛費を削減してのインフラ整備という発想にあることは明白である。日本の防衛予算はアベノミクス以前、経済成長が望めないために、そのあるべき防衛費の水準から現時点はほぼ半分程度である。人員、装備ともに中国、北朝鮮、ロシアなどの周辺国との安全保障を支えるには限界に近い水準だろう。インフラ整備のために削減するのではなく、両方とも増やすべきなのだ。

鳩山氏のように過去の自分たちの発言を反省することもない姿勢にはあきれ返るばかりだ。それ以上に深刻なのは彼に代表されるような緊縮主義の思考がいまだ政治にもまた世論にも健在なことである。日本を本当の意味で人災にまきこむ緊縮主義の問題がますます明らかになっている。