『万死に値すると言ったら、死ぬべきだ。オレは命を懸けると言ったら命を懸けるべきだ。戦後、そういう責任の取り方というものをしなくなったから、世の中おかしくなった。じゃあ、野村秋介が見せてやる。朝日と刺し違えてやる』

野村秋介烈士は昭和38年、河野一郎氏(当時農林大臣)のソ連との北洋漁業権に絡む不可解かつ不透明な動き、那須御用邸の近隣国有地払い下げと土地転がし等に「祖国と民族の敵である!」と河野邸を焼き討ち、12年もの刑に服しました。

出所間も無い昭和52年には金権主義、営利至上主義が招いた結果として、環境破壊・人心荒廃を挙げ、その元凶として経団連・土光敏夫会長(当時)への面会と反省声明を求め籠城。結果6年の実刑判決を受けています。この義挙の際「ヤルタ・ポツダム体制こそが日本を弱体化させた戦後の呪縛の源泉」と断じています。

また、フィリピンの反政府ゲリラに囚われた日本人カメラマンを救出したことはあまりにも有名です。そのスケールの大きさ、誘拐され日本政府からも見捨てられた同胞を救うという命懸けの行動は、今日に至るも未だに称賛され、語り継がれているのです。

野村秋介烈士の行動は不条理と戦う右翼、反体制・反権力の右翼として世の注目を集め、今までの右翼と違う新しい概念とスケールを持った右翼「新右翼」と呼ばれるようになりました。そしてその道統は今現在も脈々と続いており、既存の右翼とは一線を画した……反米闘争や政権寄りの利権悪の糾弾、慰霊顕彰……といったことに積極的に取り組んでいるのです。

その「新右翼」の中心的人物だった野村秋介烈士のカリスマ性は、没後25年を経た現在も尚、左右問わず多くの人に影響を与え続けています。右翼民族派の活動家である以前に、「人間・野村秋介」の魅力はとても大きく、弱い立場の者には優しく手を差しのべ、権力を振りかざす者には徹底して立ち向かう。それでいて人の肩書きやレッテルには一切見向きもしない。そんな人柄故に、右翼・左翼・任侠・政界・財界と多岐に渡る交流がなされたことが遺された著作からも伺えます。

野村秋介烈士は平成4年に「風の会」を立ち上げ、正式に参院選への出馬を表明しました。中でも漫才師・横山やすし氏を擁立したことは話題となり、ビートたけし・安倍譲二・猪野健治・菅原文太・デーブ・スペクター・栗本慎一郎・ポール牧……といった当時の著名人、左右を問わず多くの友人・支援者が挙って名乗り出るという、正に「民族派が国政に打って出る」機運を作り出したのです。

風の会の最終的な得票は約22万票。結果は議席の獲得には至らず、その闘いは惨敗となりました。しかし元より議員バッチには全く興味が無かったようで、次なる敵との闘い、最後の闘いへと突き進んでいったのです。第4の権力といわれたマスコミ、その代表的な「朝日新聞」という「敵」に向かって。

選挙の最中、週刊朝日の「山藤章二のブラックアングル」というコーナーで「風の会」を「虱(しらみ)の党」と揶揄する事件が起こりました。明らかに選挙妨害であり、名誉毀損に該当するこの件で、野村秋介烈士は怒りを爆発させ、抗議を行いますが朝日新聞側は逃げるばかり。公開討論を呼び掛けるも及び腰。およそ1年近くを経て、最終的に恐れおののいた朝日新聞の社長が謝罪するという「手打ち」で幕引きとするその日……。

当日、朝日新聞本社の社長室にて一通りの話し合いを終えた時。それまで何の素振りも見せなかった野村秋介烈士は、2丁のピストルを出し、
『今日はそんな甘いことで来たのではありません』『朝日が倒れるか、野村が倒れるか。命を懸けているといいましたよね。それを実行するために来ました。さりとて皆さんに危害を加えるつもりはありません』

と、淡々と話し皇居の方角に向かい「皇尊(すめらみこと) 弥栄(いやさか)!」と三唱し、2丁のピストルで2発を同時に胸に打ち、更に1発で自らの介錯をおこない壮絶な自決を遂げたのです。

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